冷えて痛くなった指先に息を吐き掛けて、身を丸めた。膝を曲げれば、すぐ横で寝ている小次郎の躯にぶつかる筈だった。
が、曲げた膝を精一杯突き出しても、吐息で温くなった指を伸ばしてみても、突き当たるものは無い。
は気付いた。
連日の旅の疲れに死んだように眠っていたは、隣にあった温もりが消えて肌寒さを感じ、目を覚ましたのだった。
自分の代わりにと置いていったらしい、に掛けられた派手な着物の、袖と袖を掴んでくるまる。それでも、寒くて仕方無い。
は起き上がって、戸の方を見た。微かに空いた隙間から、明かりが洩れていた。
それを追うように甲板に出て、冷たい風に肩をすぼめた。薄暗い夜の向こうに、小次郎はいた。未だ星が光る空を見つめていた。
羽織のない躯は、きっと冷えきっているだろう。
が一歩踏み出すと、足元の板が鳴った。船も、寒さに凍えているようだった。
「起きちゃったの、」
振り向いた小次郎が微笑んでいた。
は頷いて、小次郎を見た。
おいで――。
小次郎はに向け、手を伸ばす。
羽織った着物で自分をより一層包み、は差し出されたその手を取った。が思ったよりも小次郎は温かかった。
「見て。そろそろ明けるよ」
小次郎が見た先で、海面と空の境が僅かに輝いていた。濃い藍色が徐々に、陽の色に染まっていくのが見える。
「昔は何とも思わなかったのに、綺麗って思うんだ」
朝陽が身の半分を出した。暗い水面が銀色に輝く。
小次郎の手に優しく力が入って、は小次郎を見上げた。
淡く照らされた彼の肌は、何も塗られていなかったと思う。
「すごく綺麗ね」
言うと、小次郎は景色から目を逸らしてを見た。
やがて、どちらが先にというわけでなく、二人は同時に微笑んだ。
小次郎の腕が腰に回されて、は男の躯に寄り掛かる。羽織っている小次郎の派手な着物より、小次郎の躯の方が温かかった。
どうしてが起き出したのか、小次郎は分かっているようだった。
慶長七年、小倉藩へ向かう船だった。小次郎との流浪の旅が終わろうとしていた。
「小次郎」
自分の声で目が覚めた。
俯いていた面を上げると、此所は船の上でも、海を眺める小次郎の隣でもなかった。
薄い壁に所々空いた隙間から、木枯らしが入り込んでくる。冷たい風だ。壊れそうなあばら家に、は一人きりだった。
は目を擦り、座り直した。
刀を握っていた指が痺れていた。夢を見ていたが、小次郎の手だと思って、ずっと握っていたのだった。
よく、小次郎の夢を見る。
小次郎と出会ってから、小次郎の夢しか見ていなかったとも思う。
今日見たものがあの夢だったのは、きっと偶然ではなかったような気がした。
船に乗ったのも海を見たのも、小次郎と共に小倉へ向かった時が初めてで、それ以降はない。
船の旅は長かった。実際は一月無かったが、何月も船で暮らしているような感覚があった。
人の喧騒から外れた海での生活は、陸地で過ごしていた時と比べ、陽が昇って沈むまでを随分と緩やかに感じさせたのだ。
楽しかった――とは思う。
小次郎が小倉で剣術師範役になり、旅が終わろうとしていたからこそ、は船の旅を今まで以上に楽しく感じた。
きっと、小次郎も同じだった。
小次郎にとってもあの日々が、二人の一番の思い出だと言ってくれるだろう。
でも――。
小次郎自身の一番の思い出は、武蔵だった。
小次郎と過ごした時間は、の方が断然多い。何かを共有し、共に感じたことも、の方が多いに違いなかった。
それでも、武蔵には敵わない。
長い間共に過ごしてきた日々は、武蔵との一度の試合に負けてしまう。
の目の前に、小次郎と武蔵の姿が浮かんできた。
決闘を見なくて良かった。
闘いに敗れて死ぬ小次郎も、を忘れた小次郎を見るのも悲しかった。
「この闘いが終わったら、二人っきりで逃げよう」
そう言った小次郎の言葉は、に対しての優しさなんかではなく、本心だった。
小次郎もと共に南へと逃げ、二人の日々を送る気だったのである。
そしてその時は、小次郎は船の上にいたあの小次郎で、が知らない頃の小次郎の筈だった。小次郎ももそう思っていた。
は唯一、小次郎が素顔になれる存在だったのだ。
ならば、武蔵は――?。
小次郎をただ一人の男に戻せるを、小次郎の中から忘れさせた武蔵は、小次郎にとってどんな存在だったのか。
考えれば考える程、は答えが見えなくなった。
それでもただ一つ分かるのが、武蔵がいなければ小次郎はずっと悲しんでいたということだ。
は立ち上がり、袴についた埃を落とした。
外に出ると、まだ夜だった。
「どうしてもやるのかい。相手は、天下無双と聞こえる宮本武蔵だ」
一月前、武蔵を探してほしいと頼んだに、宗矩がようやく言った言葉だった。
酒を煽る男は、に対して落胆の色を見せていた。
それを隠す気もないようで、あまり乗り気じゃあない、と宗矩は続けた。
「どうしてです」
「今時仇討ちなんて……って、おじさんは思うんだよねェ」
はかぶりを振った。
それは誤解であった。
否定したに宗矩の手が止まった。不思議そうにを見つめる。
「じゃあ、なんなんだ」
「武蔵殿と、剣を交えたい。その思いのみです」
「宮本武蔵と、”斬り合いたい”?」
「はい」
宗矩は小さく笑い、手に持っていた盃を置いた。
「まるで佐々木殿と同じことを言うじゃないか」
もそう思う。
武蔵との斬り合いを望んでいた小次郎に、全く感化されていないとは言えなかった。
武蔵を求める小次郎の姿に、私も武蔵と斬り合いたいと、思うようになったのはいつからだったか。
「でも、不思議だねェ」
今度は、が小首を傾げる番だった。
「佐々木殿と同じことを言ってるお嬢ちゃんの目。彼のとは違うよ」
その時は宗矩が何を言いたかったのか、には分からなかった。
が、今なら分かる。
段々、暗闇が薄れてきた。
夜明け前は一層冷え込む。首を撫でていった風に、は身を震わせた。
は小次郎を奪われたことを悲しく思うが、奪った武蔵を憎んではいなかった。
何故、武蔵に奪われたのかを知っているからだ。
もし、船島での決闘で小次郎が勝ち、武蔵が死んだなら、小次郎は悲しんだ。もう絶対に武蔵と剣を交えられないのだと知って、彼は泣いたに違いない。
その後、共に南へと逃げて二人の日々を過ごしても、彼を、は幸せに出来たのか。
小次郎の人生に濃く大きくあった武蔵の、代わりになれたのか。
なれやしなかった。
小次郎が、自分の代わりにと掛けていった着物と同じように。それでもが寒さに目覚めたように。
武蔵は大きすぎた。武蔵のいた場所を、は埋めることが出来ない。
小次郎は武蔵でしか幸せになれなかったのだ。
そして、武蔵を失った小次郎には、の居場所はなかった。
は小次郎の中に武蔵という存在がいて、小次郎の中の、一つの存在になれたのだった。
前から、人が歩いてくる。
は長剣を抜いた。
小次郎は三途の川の畔で、一人寂しく佇んでいるだろう。誰も、武蔵の剣について語り合ってなぞしてくれない。
可哀想じゃないか。武蔵の剣によって最高の人生を送れた小次郎は、実際に受けた太刀筋を、話したくてたまらないのだ。なのに、そんな小次郎を皆は知らぬ振りをして、通り過ぎる。小次郎は一人ぼっちだ。
だから、は行く。
唇を尖らせてつまらなそうにしている小次郎は、川を渡ってきたを認めて、両手を広げ迎える。その腕で抱き締めながら、武蔵の剣はどうだったと、僕の時はこうだったと、嬉しそうに話す。
そして、その時の小次郎が、が会いたかった小次郎だ。
全てのしがらみから解かれた小次郎。もう、化粧をしなくていい小次郎。
武蔵が死んで、二人で逃げた南の島では、きっと会えない小次郎だ。
人斬りの罪で地獄の炎に焼かれても、二人はいつか川を渡りにくる武蔵を待ち続けて、痛みに耐えられるだろう。
地獄も、小次郎と一緒だったら極楽だ。武蔵がきたら、もっと楽しくなる。地獄で斬り合いを始める小次郎と武蔵を見て、閻魔様も遂に呆れるかもしれない。それを見るのがは楽しみで仕方ない。
胸が温かくなってきた。
寒さなど忘れた。
眩しく刀身が光った。
遠い先で、朝陽が昇り始めていた。
14.5.4
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