NOVEL  >>  Short Novel  >>  雨のあと #001 〜 #005
悪党の結末
ドリーム小説 男は茶器を磨く手を止めぬまま、そうか、とだけ答えた。
茶器を手離し、何も言わずに抱きしめて欲しかったが、は久秀の妻でもなく、殺された二人の子を、腹を痛めて産んだわけでもなかった。
二人の間に流れた静寂を、二人とも破ろうとはしない。
静かな夕闇の中、近づいてくる二人の別れを悲しむのは自分だけなのだと思うと、の視界は涙でぼやけた。久秀の姿が見えなくなった。
久秀は一人。久秀は、久秀だけで生きていける。が、は一人では駄目だ。久秀がいないと、は生きていけない。



そうしたのは久秀だった。世を知らぬ無知な娘に興味を抱き、強引に自らの物としたのは久秀なのだから、最後まで、久秀にはその責任を果たしてほしい。

「今宵、城を出ろ」

返事はしなかった。固く閉じた唇から嗚咽が洩れそうだった。



「松永久秀と申す」

陽に当てられた青葉から、濃い緑の香りが匂って来るような夏の初め、胸に抱えた芍薬から顔を上げた瞬間、突如視界を埋めた男の姿に小さな悲鳴をあげたは十七歳。後退ったに笑んだ顔を近付けた久秀は三十も半ばだった。

「貴女様は、郁之助殿のご息女では」

久秀の問いに、はおずおずと頷いた。

と、申します」

の父、井川郁之助は管領細川晴元の家臣であった。
細川家中で茶の湯が流行り出したのも、もう随分前になる。郁之助は月に二、三度商人を呼び寄せては茶器を集め、頻繁に茶会に出席している。茶器の価値も茶の味も分からぬが、茶の湯の楽しみとはと問うと、郁之助は、「茶の湯の何よりの楽しみは人との出会い」と応えた。
松永久秀と言ったこの男は、郁之助によって開かれた今日の茶会に出席した、一人のようだった。

「お父上とは細川と三好の縁で知り合いましてな。度々、茶会を共にしておるのです」
「そうでしたか。申し訳ありません、先程の無礼をお許しください」

は、久秀に驚きの声を上げたことを詫びた。お気になさらず、と応えた久秀はまるで気にしていないようであった。
胸を撫で下ろしたであったが、久秀が首を傾げ、顎を右手で触りつつ、何か思案するような瞳でを見てきた。
は、不安になった。久秀が微笑んだ。

「郁之助殿のご息女はまこと見目麗しいと聞いておりましたが、まさかこれ程とは。見事に咲いた大輪の花も殿には敵いませぬな」
「い、いえ……、そんなことは……」

俯き、かぶりを振る。の動揺に、胸の中の芍薬が揺れた。零れそうになった一輪の花を慌てて支えようとすると、の手の上から久秀が花を押さえた。は息を飲んだ。躯が動かなくなった。

「ご謙遜を」

耳元で声がした。男の指先に微かな力が入り、の手を包んだ。の手が覆い隠されてしまう程に大きな手だった。襟首に久秀の熱い息がかかったような錯覚を覚えたと同時に、久秀の手がゆっくりと離れた。

それでは、また――。

暗示が解かれたようにの躯に力が入った。顔を上げると、男は既に背を向けていた。



花瓶に活けた芍薬を眺め、綺麗ね、と母お清が言った。

「母上、横になっていた方が……」
「大丈夫です。今日はいつもより気分が良いのです」

お清は手を伸ばし、愛しきものを撫でるように花弁に触れた。以前、ただただ美しかった白い指先は、痩せて、生気を失い、道端に落ちている枯れ木のように節くれだっていた。
は思わず、眼を逸らした。今年の春先に倒れ、それから寝込みがちのお清の先が長くないことは、医者からも告げられていた。

「あなたに詫びねばならないことが」

お清の言葉に、は首を振った。

「母上に酷いことをされた覚えなどありません」
「いいえ……。あなたは苦しんできた筈です。昔も、今も」
は、幸せです。母上と父上の元に生まれ、不幸を感じたことなど一度もありません」

視界の端で、お清がを見つめている。はそれに知らぬふりをして膝の上に視線を落とした。
お清の言葉の意味が分からなかった。不幸を一度も感じたことのないに、「あなたは不幸だった」というお清の言葉は残酷だった。
他の家のことは知らない。だが、細川家臣の井川郁之助の一人娘であるは、きっとそれ相応の暮らしをしている。武家の娘ならば当然の、学問や礼儀作法も学ばせてもらい、着物も同じものを続けて着る必要は無かったし、米は一日に茶碗一杯だと我慢したこともない。
そして勿論、両親に愛されていなかったわけでもない。
ならば昔も今も、自分は何に苦しんでいる筈なのか。不幸である筈なのか。
お清がに詫びねばならないのなら、それは今し方、の幸せが他者からすれば不幸なのだと告げたことにだと思った。

あ――。

お清が残念そうな声を上げた。声の方向へ視線を向けると、芍薬の花弁が畳の上に落ちていた。先程、腕から落ちそうになった一輪のものだろうとは思った。あの時、咄嗟に支えたつもりの手の力が、花には負担になっていたのかもしれなかった。
膝の上に置いた手に、男の肌の感触が蘇ってきた。耳元で、あの低い声が再び囁かれた気がして、の躯が熱くなった。
部屋に戻ります、とは言った。お清からの詫びを聞きたくなく、そして何より、躯の熱いことを知られたくなかった。



月に一度、庭師は井川家の屋敷で仕事をした。庭の美しさは郁之助の自慢の一つで、あれの枝が長いだの、ここの格好が悪いだの度々郁之助に注文を付けられる庭師は、井川家の屋敷に訪れた際には肉体的にも精神的にも、三つの屋敷の庭の手入れをしたと同じぐらいに参っているだろうと思う。
庭師には、より二つか三つ年上の息子がいて、彼は一昨年から父親の仕事を手伝っている。
名は、辰吉というらしい。そう呼ばれているのを度々耳にしている。
辰吉が五日に一度、花を届けてくるようになったのは、お清が倒れてからである。

無言で差し出された芍薬を、も無言で受け取った。もう何度目か分からない程に辰吉から花を受け取っているが、二人は一度も会話らしい会話をした覚えがない。
初めの頃は、無愛想な顔でに花を押し付けていった辰吉に、父親に無理矢理花を届けさせられているのだと思ったが、屋敷の門前で、使用人ではなくが通り掛かるのを待ち続ける辰吉に、それは違うと分かってきた。
はちらりと辰吉を見た。辰吉は相変わらず無愛想な顔をして、の胸にある芍薬を見つめていた。陽に焼けた面や袖を捲って晒し出された腕には、微かに汗が滲んでいる。夏の陽射しの下で、は暫く辰吉を待たせてしまったようだった。
の視線に気付いた辰吉が顔を上げた。二人の視線が交わると、はぎこちなく俯き、辰吉も顔を背けた。
それでは――と辰吉が言った。は頷き、蚊の鳴くような声で、「いつもありがとうございます」と言った。辰吉は一度、しっかりとを見つめた。長いような、一瞬のような時が流れた後、辰吉は小さく頭を下げて去って行った。
今日、郁之助は登城し、具合が良いお清は使用人を連れて大麻比古神社へ参拝に行っている。参拝の帰り道に医者に寄り、薬を貰ってくると言っていたから、は夕刻まで屋敷に一人だった。
上がって休んでいきませんか、と言える筈だったが、もしそう言ってしまえば、辰吉は頷いただろう。そして、大した会話の無いまま、もどかしい時間を過ごしたに違いなかった。
にはまだ、そのような時間を過ごすのが辛い。
踵を返そうとしたの耳に足音が聞こえてきた。もう一度、屋敷の前の道に顔を向けると、先日の茶事で屋敷を訪れた松永久秀が立っていた。男はお辞儀をし、満面の笑みでに尋ねた。

「お父上はいらっしゃいますかな」

途端に、躯に汗が滲んだ。はたどたどしく、今日は登城し、戻るのは夕刻になる由を伝えた。そして、もし早急な用事であれば直接城に向かった方が早いことと、差支えなければが郁之助に伝えると続けた。
久秀は大袈裟な素振りをして、それには及びませぬ、と言った。

「特別急ぎの用でも、内密な言付けを持ってきたわけでもありませぬが、お父上に先日の御礼を含めてご挨拶をしたく。もしご迷惑でなければ、上がってお父上をお待ちしても?」

は頷いた。断りたくとも、断る理由が無かった。

久秀を客間に案内し、辰吉から貰った花を花瓶に活けた。久秀は花を見るや、先日の花と同じものですな、と言った。は、はい、と短く応えた。

「芍薬の咲く場所が近くにあるのですかな?我輩はこの地をあまり知らぬもので」
「その……この花はいつも、庭師の方が届けてくれるので、場所は知らなくて……」
「ああ、そうでしたか。庭師が花を」

久秀の目の前に茶を置いたの横顔を、久秀が見つめた。湯呑から離した手が震え、それを隠すようには急いで手を引きもどした。

「どうされましたかな」

いえ――そう応えたに、絶え間なく久秀の視線が注がれている。
の鼓動が速くなった。は俯き、躯の熱さに倒れてしまいそうになる感覚に耐えた。
辰吉は上げなかったのに、何故、久秀を上げたのだろう。郁之助が戻るまで、あと二刻はある。それまで、こうしていなければならないのかと思うと、は久秀を屋敷に上げたことを後悔した。
どれ程の時間を、はそうしていたか。いつの間にか、庭で蝉が鳴き始めている。

「愛い娘御よ」

顔を上げた。久秀が目の前にいて、気付くと、は畳の上にあった。
投げ出されたの右手に、久秀のものが重なった。男は腕をの顔の横へと動かすと、顔を近付け、の指先に唇を当てた。

。おぬしは美しい」

久秀は横目にを見つつ、囁いた。

「美しいがゆえに、可哀想だ。過剰な親心で屋敷の外には出してもらえず、おぬしは生まれてこの方、友と呼べる者も好いた男も出来ず、季節に彩られる景色を愛でることも叶わぬ」

の瞳が揺れた。詫びたいと言ったお清の声が遠くで聞こえた気がした。

「大事に大事に育てられてきたおぬしのこの先は、どうなる?親の勝手で閉じ込められていたおぬしは、屋敷の外にある世を知らぬまま、また親の勝手でお家の為におぬしが知らぬ男を婿にする。好いたわけでもない男の子を産み、育て、おぬしは自らの人生を親の作った小さな箱庭の中で終える。それはあまりにも悲しく、惨くはないか?ん?」

久秀の舌が首筋を這った。湿りを持つ生暖かいものが肌を撫でる感覚に、は声を洩らした。
自分で上げた女の声に驚き、唇を閉じる。が、久秀の指がするりと唇を割った。太い親指がの舌の上に置かれた。
久秀の唇が耳朶に触れた。熱い息が掛かり、の躯は力が抜けたようになった。

「見たくはないかね、箱庭の外を」

ぼんやりとした意識の端で、白い芍薬の花が見えた。脳裡に、父である郁之助と母のお清、初めてをしっかりと見つめた辰吉の顔が浮かんできた。
知らなかった。両親の愛はに詫びねばならぬもので、外に出られぬは可哀想で、外に広がる景色は皆が平等に愛でることを許されている。知らぬうちに我慢をさせられてきたの一生は、のものなのに、の思い通りにはならない。
男の手が、剥き出しになったの白い脹脛を撫でる。するすると肌の上を滑り、太腿へ、腰へ、内腿へと移動する。
奥底で疼きを感じながら、屋敷の外には何があるのか、は思った。
咥内を愛撫する久秀の指に、弱々しくの舌が絡んだ。

「庭師の若造はこうはしてくれぬものなあ」

羞恥に震えるの唇を久秀は舌で舐り、口付けた。



若かった――とは思う。
はあの時、久秀の囁きに、武家の娘ならば当然と、言い返すべきだったのである。
が、は久秀を求め、郁之助とお清、辰吉を捨て、井川家から姿を消した。お清はがいなくなった年の暮れに亡くなり、五年後、細川晴元と三好長慶の対立で起こった江口の戦いで郁之助が戦死した。辰吉のことは、分からない。

殿。ご準備を」

振り向くと、久秀の家臣がが立ち上がるのを待っていた。
織田の軍勢に囲まれる中をは無事に逃げおおせても、を逃がしたこの男は、武士であるがゆえに、落城と共に腹を割らなければならない。武士の、主と共に死すという忠義と引き換えにだけが生きていく。武士はに忠義を奪われ、仕方なく城の外で一人寂しく果てる。介錯をする者は何処にもいない。

乱世とは、悲しい――。

は唇に、紅を引いた。
この乱世が、の見たかったものだ。父と母、辰吉を失って代わりに得た、の小さな箱庭の外だ。
は立ち上がり、白い足袋の先で畳を蹴った。殿、と呼ぶ声が聞こえたが、は立ち止まらぬ。の行くべき先は、夜の向こうにあるのではない。



「城を出ろと、申した筈だが」

久秀は膝の上にあった茶釜を、横に退けた。は久秀に近付き、力無く地面に膝をついた。

「久秀」

、と久秀が呼んだ。久秀の皴を刻んだ手が、の涙に濡れる頬を撫でた。

「嫌よ。久秀は、私に一人、生きろと言うの」

そんなのは、絶対に嫌だ。生きてなんかやらない。の行く道は、が決める。
若い娘を巧みに騙し、全てを奪った男の言いなりになぞ、はもう、なってやらない。

「私の行く先は、此処にあるのよ」

大仏を焼き、将軍を殺し、主君を二度裏切った悪党の隣。
父と母、辰吉を捨て、悪党を選んだ悪党の居場所は、此処にしかない。
は、久秀のいない箱庭の外が、見たかったのではない。そんな外を見るために、人との出会いを大切にした父と、病に侵され死に行く母、花を持ちを待ち続ける辰吉を、全てを、捨てたのではない。久秀のいない世にを一人残しておいて、あの世で会った奥方と、もう一度夫婦になるだなんて許さない。あの世の久秀は、が貰う。

分かるでしょう、久秀なら――。

久秀の瞳に強い静かな炎が起こっているのが見えた。の瞳にも、同じ炎がある。
陽はとうに落ち、信貴山城は深い暗闇に沈んでいる。
傍らの茶釜には火薬が詰まっているらしい。悪党の最期に相応しい死に様である。



14.12.31

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