目の前に大海を望めるこの宿に住みついてから、半年は経とうとしている。初めは旅で痛めた足を癒すだけのつもりであったが、障子から滲む穏やかな日差しと静かな土地が離れるには名残惜しく、未だに出立の日を決められずにいる。
もう一層のこと、此処に住んでしまおうかとも思う。私にはなすべきこともなく、ただただ、無駄に飯を食らい、眠り、外を眺め、生きるだけである。
階段を上がる足音が聞こえてきた。失礼します、と女将の声が聞こえてきて、私は顔だけを其方に向けた。
「どうされました」
「稲富さん」
女将は心配そうな顔をして、お客様が、と言った。次に、お侍の、と続き、私は、己の顔が強張るのが分かった。来たか、と思った。
灰色の雨景色の中を見つめた。美しいはずの街並みが曇って見えた。大丈夫です、通してください、と言った己の声は掠れていた。
大丈夫、という言葉は不安げな女将にかけたつもりであったが、女将が、大丈夫ですか、とそれを返してきた。言葉が必要なのは女将ではなく、どうやら、私自身らしい。
女将が階段を下りていってすぐ、今度は重みのある足音が響いてきた。私は佇まいを直し、男を迎えた。私の姿を見、頭を下げた男とは、以前、私が一色家に仕えていた際に会ったことがある。世間話程度の言葉は交わしたろう。記憶が正しければ、現在は徳川家に仕えていた。
「お会いするのも久しいゆえに、改めて名乗らせていただく。拙者、徳川家家臣の尾上秀五郎と申す」
尾上は、良いか、と私の目の前にある空間に視線を向けた。私は頷き、男が薄い座布団の上に腰を下ろしてから、何用で此方に、と言った。尾上が自身の腰の刀を横に退けた。
「知っておろうに」
「否、分かりませぬ」
「徳川家家臣と、拙者は名乗った」
私と尾上の視線がかち合う。小さな瞳が、埋めんばかりの眉毛の下で私を見つめている。私は首を振った。
「貴方の前には瀬良忠衛門殿。その前には金谷道國殿。そしてその前にも二人、私を訪ねた皆が同じことをおっしゃられましたが……」
「ならば殿の真意、伝わっているであろう」
「私の返事は変わりませぬ」
「何ゆえ」
「もう武士ではありませぬゆえに」
「なればこそ、殿がお主を徳川の武士にとおっしゃっているのだ」
何が不満か、と尾上が言う。
「お主の腕を見込んでのこと。指南役として殿の下に仕えることが出来るのだぞ。どこに不満がある。足らぬものがある」
尾上の声が段々と大きくなる。負けじと、外の雨も強く降り始めた。
「その砲術の腕は誇るべきものだ。使わなくては無駄遣い。お主はこのまま、無駄に生きるというのか」
「誇るものなど何も非ず、ただ生きることが無駄というならば、喜んで私は無駄に生きましょう」
「武士は戦わねば……」
「もう武士ではないと申したはず」
「稲富殿」
「くどいですぞ。戦など、もう沢山だ」
私は口を噤んだ。それは尾上に対し、言わずともよかったことである。
「戦がお嫌いか。稲富殿」
いつの間にか、私は膝の上で握られた拳を見つめていた。顔を上げると、尾上は、強い瞳で私を見つめていた。
これまで、多くの者に向けられた瞳である。私、稲富を臆病者と蔑んだ瞳である。
天正三年八月、朝倉攻めを行う織田信長に対して起こった越前の一向一揆の討伐に、私は一色家家臣の一人として加わった。一色の水軍をいれ、織田に味方した水軍は数百艘にのぼった。大勢の人で溢れる船の上、潮風と自分の汗で肌がべたつき、着物がしつこくへばりついてきたのを今もよく覚えている。
一色の水軍は港に上陸すると、他の軍と競うかのように、次々に辺りに火を放った。私は鉄砲隊を率い、火を持つ仲間達の間を潜り抜けるようにして、辺りを見渡せる小高い丘まで駆けた。海岸にある新城を捉えようと思ったのである。
丘にはすでに味方の軍が布陣していた。硝煙が満ちる中、掲げられた旗が悠々と風に棚引いていた。旗には桔梗紋が描かれている。美濃の士岐一族、明智の家紋である。
「――貴方は?」
旗を眺めていた私は、その声にはっとして、後ろを振り向いた。馬上の男が私と、私の背の鉄砲を見つめていた。
「一色家家臣の稲富と申します」
言うと、男は頷き、「此度の戦、一色家の力を得ることが出来、光栄と思います」と言った。
そして馬を進ませ、丘の頂に上がり、まだ完成したばかりと見える一揆衆の城に、その瞳を向けた。
「あの城を落とします。稲富殿、お力添えを願いたい」
なんて清廉な男だと私は思った。下級の武士に対し、明智の武士は命令をするのでなく、同じ武士としての対応をした。
私は見た。馬上にある男の瞳の奥で、炎が燃え起こっている。
物を叩けば音が鳴るように、私は頷いていた。すでに主からそのような命を下されていたが、不思議なことに、私はこの男の言葉によって城を攻め落とす気であった。
背の鉄砲を手繰り寄せて胸の前で抱えた私を見て、男は頷き、馬腹を蹴った。
「続け!」
私は後ろの兵に吠えた。丘を勢いよく下った男の軍を追いかける。
丘の下には敵方がひしめいていた。その軍勢の中に主将と思わしき姿を捉えた私は走りながら鉄砲を構えた。銃口が主将の男の顔面を指す。すぐさま、鉛玉を放つ。
もんどりを打って倒れる男を確認することなく、私は近くの兵と鉄砲を取り換え、それを構える。最前にいた雑兵の首に向かって撃ち込む。
明智の武士が私を振り向いた。新たな鉄砲を受け取りながら、私も彼を見た。
「稲富殿、私の背後をお任せします」
「承知致しましてございます」
私の言葉を聞くな否や、彼はそれこそ放たれた鷲の如き速さで敵勢の中を駆け抜けた。
止まらぬ男の猛進に一揆衆達が怯む。私は彼が無傷で新城に辿り着く為に夢中で鉄砲を撃った。小さくなる男の背を目で追いかけながら、私は一心に一揆衆を撃ち続けた。
男の名は明智光秀と言った。一揆衆が狙う織田信長の、家臣である。
恥ずかしながら、この頃の私は光秀様をよく知らなかった。明智光秀と聞いて浮かぶのは織田家の家臣ということのみで、どのような生き方をし、どのように振る舞い、主君、同輩、家来からの信頼がどうであるかなど、光秀様がどんな人間であるのかを知らず、また今まで気にもかけなかったのである。
もっと早くに光秀様を知ればよかったと、今も思っている。
そうすればいち早く光秀様の下に向かい、もっと長い時間を光秀様と共に過ごすことができ、共に戦場を駆けることができた。なにより、光秀様との出会いに暗闇の中で一縷の光を見た感動を味わっている私には想像も出来ない後ほどの後悔も、せずにすんだかもしれなかったのである。
新城を落とすに、時間は然程も掛からなかった。主である義道様は水軍、そして私の活躍を称賛したが、城を落としたのはまぎれもない光秀様であった。流石はの鉄砲隊、と褒めたたえられた私の隊は新城から離れたところで彼の援護をしていたに過ぎなかったのである。
越前の一向一揆討伐は数日のうちに織田信長の大勝として終わりを迎えた。一色家はこの件により織田家と更に良好な関係を築くこととなり、光秀様に感心していた私はまたいつか再会できるだろうと期待に胸をふくらませていた。
討伐戦のさなか、光秀様とは最初に出会った際に言葉を交わしたのみである。それなのになぜ私が光秀様に心酔したのか、他人からすると理解ができないかもしれないが、光秀様には魅力があった。戦う姿、戦場を駆ける姿、そして、あの瞳に込もった内なる炎に、私は惹かれずにいられなかった。
光秀様との再会を今か今かと待ち望んでいた矢先、信長が、延暦寺が朝倉・浅井の味方についたとして比叡山の焼き討ちを行った。この焼き討ちは地面に空いた蟻の巣の穴に油を垂らして火を点けるようなものであり、死者は女子供もあわせて数千に上ったという。それでも命からがら逃げだした僧侶たちが少数おり、庇護を求める彼らを義道様は哀れと思い、城に匿った。
全身煤まみれの僧侶達の、ある者は焼き討ちの惨状を語り涙し、またある者は呆然と空の一点を見つめ、そしてまたある者は震えの止まらぬ身体を抱きしめる様を眺めながら、私は、己の身体が大きな恐怖に包み込まれたのを感じた。その光景に、信長の残忍さ、僧侶達を匿ったことで信長を敵に回した一色家の終末を見たのだった。
それから間もなくだった。信長との関係は崩壊、一色は織田の敵と見做され、明智、細川の軍に攻められることとなった。
一色が織田に敵う筈もない。人望を得られなかった義道様は国人達の離反を防げず、逃亡した先の家臣にも裏切られたために行く場を失って自害された。無論、代々から仕えていた稲富家の私も腹を切って追うべきであったが、義道様はそれを良しとしなかった。
一色家との縁もこれまでと思って、他家に行くがよい。をここで死なせてはあの世でお主の父に叱られると、義道様は私に微笑んだ。何故このお方が皆から忠を得られなかったのか、一人果てる義道様を哀れに思った。
私は、明智軍に投降した。迎えた光秀様は私を強く抑えていた兵を下がらせ、きつく縛っていた腕の縄をほどいた。待ち望んでいた光秀様との再会がこれなのかと私は唇を噛んだ。いずれ同じ戦場で再び共に戦えたらとの願いがこうなるのかと悔しくて悔しくて堪らなかった。
「私は元一色家家臣、稲富。明智殿、どうか、あなたの軍にお加えくださりませぬか」
何とも図々しい願いだったと思う。先程まで敵と見做し、明智の兵を殺していたというのに、よくもこんなことが言えたものだと思う。
不忠者と罵られ、斬り払われても良かった。義道様を見捨て光秀様を追った、それは紛れもない事実であった。
深く頭を垂れる私の肩に手が置かれた。顔を上げた私の目に、優しく微笑む光秀様が映り込んでいた。
「――見事ですな」
光秀様の屋敷を仰ぎ、感嘆の息を漏らした私に、光秀様は、前を向いていないと転びますよと注意を促した。私は言われた通りに前を歩く光秀様の背を見つめなおすが、それよりも興味が上を行き、美しく整えられた庭や木の青さが香ってくるような屋敷の壁や柱から目を逸らせずにいた。
私は光秀様の下に仕えることを許された。その御恩に報いる為、己の砲術、持ちうる全てを活かし、明智家を支えると誓った。
四方を眺めていると、光秀様の足が止まり、それに倣って私も立ち止まった。光秀様は目の前にある戸の向こう側へ、入りますよ、と声を掛けた。ややあって、はい、と音の高い、女子の声が返ってきた。
私は光秀様を見やった。光秀様は私に対しにこりと笑むと、戸に掛けた手を横に引いた。
戸の奥には一人の娘が此方に身体を向けて座っていた。鮮やかな、紫に少しばかり赤みが帯びた髪色が、彼女が誰の娘であるのかをすぐに理解させた。
「父上」
娘の小さな面が、花が咲き綻ぶような笑みに満ちた。肩に付かぬ程の長さの髪が揺れると、窓から差し込む陽に反射して更に美しく輝いた。
「父上、おかえりなさいなのじゃ」
「ただいま戻りました」
娘の丸い双眸が、光秀様の後ろにいる私を捉えた。それと同時に光秀様が私を振り向き、
「殿。私の娘です」
と言った。
奥にいた娘が私に向け、頭を下げた。
「明智光秀が娘、ガラシャと申す」
「ガラシャ様、お初にお目にかかります。私は稲富と申す者。以後お見知りおきを」
すぐさま膝をつき、頭を垂れる。すると、娘――ガラシャ様は素早く膝を寄せ、珍しいものを見るかのように私の顔を覗き込んだ。突然のことに驚き、私は後ろに反るような姿勢になった。
「ほむ。じゃな!」
「こら、いきなり何を……!殿が驚いているでしょう。……すみません、自由な子に育ちまして……」
「い、いいえ……」
光秀様が慌てて間に入りガラシャ様を引き離す。ガラシャ様は言葉の意味が分からぬという表情をして光秀様を見上げた。光秀様はそれに苦笑いをしつつ、ガラシャ様の隣に腰を下ろした。
光秀様とガラシャ様、二人並んでみるとなおさらに親子であると確認できる。
共通した髪の色味や肌の白さ。ガラシャ様の顔立ちと吸い込まれるような深い翠の瞳は恐らく、奥方に似たのだろう。
それぞれ纏う空気は違うとも、その芯の部分は変わらぬように感じる。
「殿」
「はい、なんでございましょう」
先程ので額に滲んだ汗を拭ってから、私は答えた。
「私は当主として家を空けることが多く、娘を見る時間は多くありません」
「はい」
「それゆえ、普段は侍女に娘の身の周りの世話をさせていますが、先程の通り……好奇心が旺盛な娘です。恥ずかしながら、女子の手に負えぬようになりました」
む、と隣のガラシャ様が不満の声を上げる。
光秀様はこほん、と咳払いをしてから、続けた。
「そこで殿に、娘の面倒をお頼みしたいのです」
「は……。私に、でございますか」
突然の言葉につい声が上ずる。ちらりとガラシャ様を見やると、ガラシャ様は私を興味深そうに見つめていた。私を映す大きな瞳からぎこちなく目を逸らす。少しの間思案してから、お受けいたしかねます、と私は言った。
「私は光秀様にお仕えして間もない、新参者でございます。未だ右も左も分からず、己の実力も古参の皆様のそれ以下と承知しております。その私にご息女の御身をお任せいただくわけにはいきませぬ」
「いいえ、貴方の実力は私がよく知っています。そして人柄も。娘を任せるならば貴方以外にいないと思っているのです」
「滅相もございません。私は……」
「己を評価してやるのです、殿。貴方のことは貴方が一番に信じねばなりませんよ」
そう言われれば、お役目に自信を持てなくとも受ける他にない。事実、己のことは己が一番に信じねばならぬという光秀様の言葉には図星を突かれていた。
私に砲術を授けた祖父が口煩く言っていたのがそれだった。己を信じきれぬ私に対し、ここで変わらねばのちに後悔することになるとも言った。
光秀様を見つめ、頷いた視界の端にガラシャ様が映る。彼女を向くことは出来なかった。真っ直ぐに見ずとも分かる頬の上気した柔らかな笑顔に、私はどんな表情をしてよいのか分からなかったのだ。
光秀様に仕えてからの生活は、大変賑やかであった。光秀様の、屋敷の外に出てはならないという言いつけもガラシャ様には毎朝なんとなしに言う、いただきますと同じようなもので、気が付けば姿がなく、塀の向こう側からガラシャ様の声が聞こえて慌てて連れ戻しに行くというのが日常茶飯事であった。祭りに行きたいとおっしゃったガラシャ様を渋々連れて行った時には一瞬で姿を見失い、必死に駆け回って探しだしたあげく、私が迷子になりガラシャ様が見つけたのだと夕餉の場で胸を張って言われたこともあった。
一番に困らされた出来事は、夜中、怖い夢を見たというガラシャ様が私の布団に潜り込んできたことだろう。違和感に目覚め、同じ布団に入るガラシャ様を目にした時には情けない悲鳴をあげたものだ。
私が光秀様に仕えてから暫くして、ガラシャ様が細川忠興様に嫁ぐと決まる。その際、光秀様から、ガラシャ様に付き添い、細川家に入ることを頼まれた。形ばかりは細川の家臣ということになるが、私の忠は光秀様、そしてガラシャ様にあった。
二つ返事で応えた私に、光秀様は安堵したようだった。愛娘が嫁ぐことに少しばかりの不安を抱える姿は、一人の父であった。
頼みます、と微笑んだ光秀様の頬が以前より痩せたのに気付く。織田は近頃戦ばかりで、戦の後処理も任せられていると聞く。体調を心配した私に、光秀様は大丈夫だと応えた。
織田信長の戦は苛烈を極める。根絶やしとなった一族、地獄となった地平は少なくはない。
戦無き世が、光秀殿の望むものであった。非道を尽くす織田信長の傍で眺める荒れた戦地に、その思いは身を突き破るほどに溢れたに違いなかった。
ガラシャ様の輿入れから、幾年も経たぬ頃だった。
天正十年六月、光秀様は主君信長へ謀反を起こしたのである。
「好きな者が、何処にいるのか」
そう言った私の声に、怒りが籠っている。
尾上のそれは、今までの一度も、尋ねられたことも尋ねたこともないことであった。
「戦では多くの者が死ぬ。子供も、女も、老いた者も病んだ者も関係なく死ぬ。戦をし始めた者ではなく、責の無いその周りの者が、民が、殺されるのですぞ。それをどうして嫌わずにすみましょう。好き好んで、戦わねばならぬのでしょう」
尾上は眉一つ動かさなかった。動じぬその姿に、何かの線が切れたような気がした。
「戦が嫌いと問わねば、そうだと応えねば、分からぬことか。戦で失われるものの多さを、貴方は見たことがないと言うのか。戦がつける爪痕に、心を痛めたことは」
声を荒げる私に、尾上はその瞳を向けるのを止めなかった。
風も出てきたらしい。雨が部屋に入り込み、隅の畳を濡らし始めていた。
気付かぬのか、と尾上が言った。
「戦を恨むお主の言葉には、恐れが滲んでいる」
――なんだと。
声になりきらぬ音が、喉の奥から漏れた。
「先程からお主は、戦に奪われるのが怖いと、申しているのだ」
身体の奥が、氷を流しこまれたように冷たくなった。
脳裏に、太い火の柱に飲み込まれた屋敷が浮かんだ。
「稲富殿、覚えておられるか。拙者とお主が初めて言葉を交わしたのは、越前の一向一揆討伐が終わって間もない頃。拙者が殿のお供で一色家を訪ねた時であった」
私は頷かなかった。尾上は話を続けた。
「あの頃の拙者はまだ戦に出るようになって日も浅かった。殺した相手が夢に出てきて、拙者を呪い殺すと言う。毎晩魘され眠れず、とうとう戦の意味も分からぬようになり、自問自答する日々であった」
「お主の戦での活躍は聞いていた。たまたま廊下ですれ違ったお主の表情が晴れているように見え、拙者と同じ戦場を生きている者ではないように思えて、問うたのだ」
――何故、お主は戦うのか。
あの時、尾上はそう言った。そしてその問いに、私は……。
「戦を無くしたい、と。戦の無い世を作る為に私は戦うのだと、お主は言った」
「……」
「今日拙者がお主を訪ねたのは、あの時のお主の瞳を覚えていたからだ。石田三成に細川邸を襲撃された際、御守りするべき奥方を見捨て逃げ出したという話を信じられず、ならばまことに臆病者であるか確かめようと、ここに参ったのだ」
尾上はゆっくりと立ち上がった。未だ己の膝の上から視線を逸らせぬ私に向け、言った。
「明後日、拙者は此処を発つ。それまで二軒先の向かいにある旅籠で過ごすつもりだ」
失礼した――尾上は部屋を出て行った。階段を下る足音が響く。尾上が女将に向け、何か言葉を掛けたのが聞こえた。
雨はまだ、強く降り続いている。
光秀様が謀反を起こしたことに、私もガラシャ様も信じられぬ思いだった。光秀様からそのような話を聞いたこともなかったからだ。謀反後には、ガラシャ様の夫である忠興様に加勢を求める文が届いたが、忠興様はそれに応えなかった。ガラシャ様を薄暗い屋敷の一室に幽閉し、打倒光秀の旗を掲げ出陣した。
儚くも、光秀様が手にした天下はたったの三日で終わってしまう。戦無き世を目指した男の世が、何故討たれねばならなかったのか、たったの三日の天下の代償が何故こうも辛く長くなくてはならぬのか、逆臣の娘となったガラシャ様への冷遇は、光秀様を討ち取り覇権を握るようになった豊臣秀吉の取り成しで一時期は緩和したが、間もなくして忠興様のガラシャ様への対応は冷ややかなものとなっていった。
夫婦の盃を交わした相手からの仕打ちにガラシャ様は苦しんだ。しかしその心中を私に吐露することはなく、健気に振る舞い、私や付き添う侍女、小侍従に心配を掛けぬようにしていた。
精一杯、大人になろうとした娘は何度も打ち据えられたようにぼろぼろであった。弱音を吐いたのはあの時、只の一度だけであった。
遠くで雷鳴が聞こえる。私は窓枠に凭れかかった。地を叩く滴の音が私の全てを満たす。
瞼を閉じると、越前の討伐戦での煙たい情景、風と共に姿を現した光秀様、初めてお会いした時のあどけない笑みをしたガラシャ様、雪のような白無垢に身を包んだガラシャ様の姿が浮かんでくる。嗚呼、あの時の私はまるでガラシャ様の父親であるかのように、或いは兄、或いは一人の男であるかのような寂しさと嬉しさ、慈しみを抱いていた。
そんな彼女を守れなかったのは私が弱かったからだった。彼女を燃え盛る炎の中に置き去りにしたのは、紛れもない、臆病者の稲富であるのだ。
雨の音が遠くなっていく。徐々に何も聞こえぬようになり、ただ己の鼓動が響くのを感じる。私はゆっくりと夢の中に沈んでいった。
「軍勢が此方に向かっておる」
光秀様に仕えていた頃からの知己である河喜多石見一成が、色のない真っ白な面をして言い放った。
座っていた小笠原小斎は何も言わずに頷き、じっと夜の闇をねめつけた。
「おいたわしや」
そう呟いた小笠原の双眸から涙が零れ落ちんとしていた。座り込んだ河喜多の、胡坐を掻いた腿に置いた両の拳が、ぎりぎりと震える程に握られているのを見て、我ら三人ともが、どうにかしてガラシャ様を逃がしたいと思い、同時にそれが無理であると知っているのを理解した。
昨日、人質として大阪城へ登城されたしと石田三成方の使者が訪ねてきた。拒絶し追い払ったものの、ならば次は力づくで来るだろうというのは分かっていた。
豊臣秀吉亡き後、世は豊臣家を推す石田三成方、そして徳川家康方に二分された。来たる大戦に備え、相手の戦力を削ごうと企む石田三成は徳川家に与する家の妻子らを人質にとろうと動き出した。
ここ、細川邸に来ることも予想をしていなかったわけではない。現に、主人である忠興様からはその場合の対処を聞かされている。
「殿の命じられた通りに為す。奥方もそのことについてはご承知だ」
小笠原の言葉に、私も河喜多も頷いた。
「小笠原殿、申し訳ない」
「申されるな、稲富殿。殿に長く仕えてきた身、奥方の介錯を果たすことを殿はお許しくだされよう」
河喜多殿、と小笠原が呼ぶ。河喜多は相変わらずの無表情で、応、と返した。
「火薬の準備をお願いしたい」
「任されよ」
「稲富殿、奥方にこのことを」
私は頷いた。持ち上げた腰は、根が張ったのではないかと思える程に重い。両の足は枷が付いたように進まぬ。私は枷の重みに膝が折れぬよう、しっかりと地を踏みしめて、ガラシャ様の室へと歩んだ。
室からは微かな明かりが漏れていた。まるでガラシャ様の尊い輝きが漏れ出しているような思いになって、私は唇を噛んだ。廊下に、力なく膝を付いた。
「奥方様」
声掛ければ、戸の向こうでガラシャ様が動いたのが分かった。
「石田三成の兵が、此方に向かっております。屋敷を囲まれるのも時間の問題と思われます」
その時間が果たして一刻か半刻か、またその半分か。私には分からないが、それを告げることすら、彼女には残酷だと思えてくる。
返事の代わりに、目の前の戸が開かれた。いつまでも面の上げぬ私に、ガラシャ様は、
「」
と名を呼んだ。
遂に、私はガラシャ様を見上げた。ガラシャ様は初めてお会いした頃と変わりない、春の木漏れ日を受けた水面のように透き通った瞳で、私を見つめていた。
私がガラシャ様に言いかけた時、ガラシャ様は身体を室の中に戻した。静かに腰を下ろしたガラシャ様の目の前には、漆塗りの器に入る鮮やかな砂糖菓子があった。
ガラシャ様の面倒見役となった頃、ガラシャ様はいつもああやって私が来るのを待っていた。甘いものが苦手だという私の手に幾つかの砂糖菓子を握らせ、これはでも絶対に美味しいと言うのじゃと目を輝かせていた。
ガラシャ様が嫁いでからは、それも無くなった。忠興様はガラシャ様にご執心で嫉妬深かったのだ。私も何度斬り払われそうになったか数えきれない程だった。その度にガラシャ様が忠興様に抗議し、私は命を救われている。二人で砂糖菓子を食べ話している姿は、忠興様の怒りを買うものでしかなかった。
私は室に入った。静かに戸を閉め、ガラシャ様の向かいに座ると、ガラシャ様は砂糖菓子を一つ口に含んだ。
「久しぶりなのじゃ」
「……」
「わらわが婿殿に嫁いでからは、そちと楽しく話すことも許されなかった」
私の膝の上にある手に、ガラシャ様が触れた。小さな手によって返された手のひらに、淡い桃色の砂糖菓子が置かれた。
「これはの、わらわが一番、大好きな菓子なのじゃ」
私は手にある砂糖菓子を口に入れた。舌の上に置いた瞬間、ほのかな甘みがいっぱいに広がり、遠い昔、城下を散策するガラシャ様を見失わぬように気を張りながら、明日の分の菓子を買った時のことが思い出された。様々な色、形をしたそれを見せた時のガラシャ様は世の全てに好奇心を駆り立てられる、あどけない少女で、、ありがとう、と言われると胸がこそばゆいような不思議な気持ちだった。
「わらわが悲しくなった時は、思い出すのじゃ。あの頃は父上がいて、がいて、見たことのない沢山のものをわらわはわらわの眼で、しっかりと映したことを。わらわの知らぬ世の理を、父上とは見せてくれた」
私も同じだった。辛く、苦しい時にこそ明智屋敷で過ごした日々が思い出された。
ガラシャ様の指が菓子に伸びたが、ためらうかのように膝元に戻った。私は所在無さげに緩く握られた手を取り、再び面に返すと、先程ガラシャ様が私に為されたように、砂糖菓子を一つ取って、手の上に置いた。
小さなそれが、唇を割って入っていくのを見る。
「」
「はい」
「そちには、我儘ばかりを申した」
「お気になさらずに。それが私の役目でしたゆえ」
「その役目は、いつまで続くのじゃ?」
私は顔を上げる。彼女の真剣な面持ちに、胸がざわめいた。
役目の終わりはない。光秀様に忠誠と、己の全てを捧げると誓ったのだから、光秀様から任されたこの役目にも同じように尽くす。
守るべきガラシャ様がこの世から去る時には、私も共にこの世に別れを告げ、三途の川の向う岸までもご一緒するまでである。
「終わりはありませぬ」
応えた私は異常な喉の渇きを覚えていた。ガラシャ様のお考えのことがぼんやりと、私の意識の内に入り込んできた気がした。
私は何も言わぬまま、ガラシャ様を見つめた。
「、そちは死んではならぬ」
と、ガラシャ様が言った。
胸騒ぎは確信になった。それは聞けませぬ、と私は返した。
「最期――いえ、黄泉の先までもお供致します」
「よいのじゃ」
「いいえ、なりません。なりませぬ。光秀様から、忠興様から、奥方様の身を任せられているのです。小笠原殿、河喜多殿共々、ここで果てる覚悟でございます」
ガラシャ様はただ微笑んだ。酷く、悲しそうな表情であった。
何故なのです――そう漏らすと、ガラシャ様は、許せ、と言った。
「に、生きて、この世の行く末を見てほしいのじゃ。数多の戦の先に戦無き地平があることを、そちの眼で、しかと確かめてほしい」
わらわにはそれが叶わぬゆえ――。
戦無き地平、という言葉が私の中で木霊した。光秀様が目指したものを、何より見たがっていたのはガラシャ様だった。明智光秀は討たれ、逆臣と罵られようとも、父が為そうとしたものをガラシャ様は信じ続けている。
権力の渦に巻き込まれた悲運の娘は、己の命を投げ出した先にある世が何であるのか、信じている。
小笠原殿でも、河喜多殿でも、仕えてきた侍女、侍従でもなく、私を生かす理由を、私は知っていた。
ガラシャ様と同じく、私も、明智光秀が目指した戦無き地平を望んでいたからだ。
私が、確かめるしかない。私にしか、それを果たせない。
「――しかと……。この、しかと、この戦の先を確かめまする」
礼を言うぞ、、という言葉に私は首を横に振った。膝の上で強く拳を握ったままなのは、ガラシャ様を残して生き続ける私の姿を想像して千切れそうになった心の痛みを、どうにか堪えているからだった。
二人の間に会った漆塗りの器が音をたて、砂糖菓子が畳の上に散らばった。ガラシャ様との距離が近くなったことに気付いた私は、奥方様、と声を掛けた。しかし、ガラシャ様は離れようとはせず、制止の声を上げた私も、ガラシャ様から離れようとはしなかった。
「奥方様」
ガラシャ様は私の胸に顔を埋め、かぶりを振った。
「そちに、そう呼ばれるのは嫌じゃ」
胸に押し付けられた口元から消え入りそうな声が漏れる。
私が受け止めた小さな身体は可哀想な程に震えていた。
「ガラシャ様」
残酷である。残酷な、運命である。
嫉妬に狂う程ガラシャ様を愛した忠興様は、どうして、ガラシャ様の危険を知りつつも満足とは言えぬ警備の屋敷に残したのか。ガラシャ様に命を絶たせ、留守居は殉死しろと言い残したのか。愛していたのなら、愛していたのなら、何故……。
私は、溢れ出る涙を堪えることが出来なくなっていた。
ひたすらに我慢してきたものが器を失ったように零れだしていく。
何故、このような運命となった。戦無き世を目指した男の悲しい結末と、父を信じた娘のあまりにも悲しすぎる最期。一体、誰を憎めばよいのだろう。誰を憎み呪えば、私達は救われるのだろう。
「は泣き虫なのじゃ」
「はい」
「わらわも、泣き虫なのじゃ。そちと、同じ」
「はい」
私が早く光秀様と出会い、光秀様の右腕となる武士であったなら、信長への謀反後、私も光秀様に力添えし、豊臣秀吉、柴田勝家などの織田家の家老たちを撃ち果たしてみせた。そうすれば、光秀様の天下は続き、世は泰平となっていただろう。
それでも、今夜が来てしまったなら、私はガラシャ様を腕に抱き、己の砲術をもってこの闇を駆けた。乱世の波に浚われる娘の運命を、私が変えて見せる。
そこまで考えて、果たして、私に為せるだろうかと疑問が過る。私は思わず、心の内で自嘲した。
このに、その大事を為せたものか。
祖父の言った通りだと思った。大事を為すのには、私は愚かで、臆病者だった。
この先、後悔しかない人生を私は歩む。私が生きながらえるのは戦無き地平を見るため、そして己を信じ切ることが出来ない為に招いた不運を、この身をもって償うためだ。
「、わらわは、そちが大好きじゃ。そちのことを、まことの父とも思っていた」
止めどめなく溢れる涙で、私の頬は濡れていた。ガラシャ様を抱きしめる腕に力が籠る。
次第に屋敷内が騒がしくなってきて、私達の鼓動も早鐘を打つように早くなった。いよいよ、石田三成の兵が細川邸を囲んだのだった。
、と名を呼ばれた気がして、はっきりと目が覚めた。ゆっくりと身体を起こすと、私が敷いていた湿った畳の匂いが、漂って鼻を突いた。
下の階から、女将の、夕餉の支度が出来たと呼ぶ声が聞こえる。夢の中で甘い砂糖菓子を舐めたからか、まだ腹は減っていなかった。
ふと、私は窓の外を見やった。
あれだけしぶとく降り続いていた雨が止み、街は急な気温の上昇によって出た白い霧に、包みこまれている。
早朝のそれとは違う、温かみを帯びたものの先で、私は先程見た夢を思い出す。私の人生に深く刻まれた日のことだというのに、今日まで、夢に見ることはなかった。それも、何故なのかが分かる。
忘れていたのだと、私は思った。失った悲しみと、しきれぬ後悔に暮れるばかりで、私は大事なものを細川邸の焼き跡に置いてきてしまったのだ。
私は声を張る女将に向け、今行きます、と言った。味噌と魚を焼いたものの香ばしい匂いがする。食べ終わった後、和菓子屋の戸を叩いて、女将と主人が好きな大福を買ってこようと思う。終いっぱなしの手甲脚絆も今日の内に洗って干しておけば、明日の昼前には乾くだろう。
腰を上げ、階段の方へ歩きかけて足を止めた。踵を返す瞬間に、窓の向こうにある霧の町中に一人の娘を見たような気がした。
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