会ったって仕方がない。どうにもならないとは分かっている。
だから今まで、冷たい布団の中で温もりを恋しく思っても、雨に濡れ輝く紫陽花に遠い日を見ても、会いに行かなかった。
全てを忘れ、前に進もうと誓ったのである。
なのに――。
は今、通い慣れた道を歩んでいる。
利家が寄越した、“会いたい”という文に、以前、利家が似合うと言ってくれた藤色の着物を纏い、屋敷を飛び出した。
愚かだと思う。苦しみが薄れることなく、更に色濃くなるのを知っているのに、一時の温もりを求めては利家に会いに行こうとしているのだった。
利家のことは、利家の名が、犬千代だった頃から知っている。
織田家臣であった利家の父利春と、の父が同輩であり、その為、は父に連れられて、前田家を訪ねることがよくあった。父同士が他愛もない話やこれからの世の行く末についての談義に花を咲かせている間、利家には近くの小川や利家しか知らぬ秘密の場所やらに連れていってもらったものだ。
夜が更けても父達の話が尽きぬ時は、前田家の屋敷に泊まってゆく。は利家と同じ布団に入り、どちらか一方が眠くなるまでお喋りをした。利家の冗談につい笑い声を上げてしまいそうになると、利家がの口を手の平で押さえて、しい、と囁いた。いつまで起きているのかと、母に叱られるからだった。
が笑っては、利家が口を塞ぐ。それを何度も何度も繰り返し、飽きるどころか、二人にはそれが堪らなく可笑しく、最後には互いに互いの口を塞ぎ、くすくすと笑い合った。面白くて楽しくて、けれども明日になれば帰らねばならないから、今宵は寝ずに利家とお喋りをしていたいと思うのに、先に瞼が重くなるのは決まっての方だった。
利家の屋敷が見えてきた。は足を止めた。
今ならまだ、間に合った。文を無視し、来た道を戻る。は己の誓いを守ることが出来る。
そうすれば、もう悲しまなくて済む。利家の温もりを忘れられぬうちは辛いだろうが、きっと時がその渇きを癒してくれる。
が、会ってしまえば、はこれから先、利家を忘れることは出来ない。一度誓いを破ったは、また再び、誓いを破ろうとする。は必ず、男への想いを抑えきれず、会いに来てしまうだろう。
辛い日々が、蘇ってきた。この苦しみをもう味わいたくなくて、は利家と離れたのだ。
帰ろう――。
瞼を伏せ、来た道を振り返った。一歩、足を踏み出して利家の屋敷から離れた時、は新たな道を歩んでいる筈だ。
目の前に鮮やかな藤色が飛び込んできた。
「よう、久しぶりだな」
摘んできたらしい紫陽花を手に、利家が立っていた。
「ぬかってんなあ」
「うん」
「足、滑らねえようにしろよ」
「うん」
利家と離れてから、四年が経っていた。
一度も顔を合わせず、文をも送らずの四年の歳月は利家との間に埋めようのない隙間を作るだろうと思っていたが、利家は変わらず、犬千代のままでを迎えた。まるで、昨日まで共に居たようだった。
お前はこの四年間、何をしていたのかと問うこともせぬ利家も、に何かがあったのだとは、気付いている筈だった。気付いてはいるが、その何かを、に問うて確認をする意思はないようだった。利家は利家なりに、が四年間自分と会わなかった理由を見つけ、それを疑いもせずに信じているのである。だから、理由をあらためて問い質すような真似はを苦しめるだけで、無意味だと思っているのだ。
どれも――。
私を苦しめると思った。
利家に思い違いをされているのも、まことを知ってもらえないのも、苦しむ他なかった。
地面に突き出ていた木の根に躓きよろめくと、の肩を利家の手が掴んだ。
は咄嗟に躯を捩った。それと同時に、転げぬように支えてくれた利家の手を払ってしまったことに気が付いた。横を見上げると、利家が驚いた表情をしていた。
「あ……。ごめんなさい……」
わざとしたのではない――その意味で謝ったつもりだったが、わざとでないなら、無意識にしたということだった。顔を歪めたに利家は何も言わず、笑みを浮かべて首を振った。
この四年で利家は変わっていなかったが、は、利家と同じ布団で寝たではなくなっていた。二人の隙間を空けるのは、会わぬ四年間でも利家でもなく、隙間を恐れた自身のようだった。
「慶次によ」
再び歩き出した男の背に、夕日の色が滲んでいた。
「が今どう生きているか、叔父御は知っているのかい。って、言われてよ」
「……」
「お前は知ってんのかって返したら、盃空けて出てっちまった」
「そう……」
「慶次と会ったのか?」
は足元の地面を見つめたまま、一度だけ、と応えた。
慶次がを訪ねてきたのは去年の雪降る冬の日である。
慶次は利家の義理の甥に当たる。利家の兄、利久の養子であり、生まれは利久の妻の実家である織田家臣の滝川氏だという。
利家と慶次の歳はあまり変わらなく、幾度か三人で遊んだことがある。慶次と二人で遊んだことは一度もなかった。利家のことは沢山知っていたが、慶次については知らないことの方が多かった。慶次もそうだっただろうと思う。と慶次の距離は近くはなかった。
その慶次がを訪ねてきた。
今まで前田家に足しげく通っていたが一切顔を見せなくなったと聞いて、様子を見に来たらしかった。
「叔父御が寂しがってるよ」
「……そんなことないわ」
「なんでそう思うんだい」
応えられなかった。言えば、泣いてしまいそうだった。胸の奥が、締め付けられるように痛くなった。
利家と出会い、長い時を二人で過ごし、気付けばは利家のことを好きになっていた。前田家を訪ねた時に迎えてくれる利春は、程に器量の良い嫁が来てくれたら、と言った。利春の妻も、が嫁なら楽しい家になると言った。
きっと利家の妻になれると思っていたのだ。あの頃のは、利家と夫婦になれるものだと、信じていたのである。
が、利家は恥ずかしそうに鼻を掻いて、まつと夫婦になる、と言った。
まつは、利家の従妹だった。兄妹のように見えていた利家とまつの姿が、盃を飲み交わす姿になって浮かんできた。
そうなの、おめでとう、私も嬉しい、と言ったの声が震えていたのに、利家は気付かない。
お前には一番に話したいと思った、祝ってもらえて良かったと、心底幸せそうに笑ったのである。
まつを嫁に迎えてからも、利家は会ってくれた。の屋敷を訪ね、近くを来たから寄ってみたとか、どこどこへ行こうだとか、変わらぬ笑みをに向けた。
梅雨の時期には必ず紫陽花を見に行き、二人で躯を寄せ合ってお喋りをした。触れる肩や、が滑らないようにと引いてくれる手が温かく、利家がまつと所帯を持ったという悲しみも、温もりに埋もれていった。
まつは、今も利家の妹なのだと思った。妹としか見れぬ嫁を置いて、利家は、利家にとって女である自分に、会っているのだと思った。
慶次に会わなければ良かったと思った。利家の話が出るのは分かり切ったことだった。
は顔を背けた。横顔を慶次が見つめてきた。
「何処かへ嫁ぎな。あんたなら、難しくない」
何も言わないの眼から、涙が零れた。誰にも見せなかった、利家に流す涙だった。
「こっち、座れんぜ」
利家が差し伸べた手にの視線がそこに落ちると、利家は困ったような顔をした。
先程に手を払われたことを思い出したようだった。力無く戻されそうになった男の手に、は自分の手を重ねた。熱い手に握られると、今までの悲しみを塗りつぶすように、利家への愛しさが込み上げてきた。
利家に、まつと夫婦になると聞いた日も、二人は紫陽花の咲き誇れる此処にいた。犬千代が、俺の秘密の場所だと、を連れてきた場所だった。
「それ、此処のを摘んだの?」
「おう。お前にやろうと思ってよ。でも、萎れちまったな」
は首を振って、利家の手から紫陽花を受け取った。
「大丈夫。水に差せば、元気になるだろうから」
そう言って紫陽花を胸に抱えた。隣の男がを見て、溜息を洩らした。
「綺麗になったな」
利家が言った。は驚いて利家を見た。
熱くなる胸は、嫁ぐんだってな、という言葉に静まった。
「……うん。そうなの」
「いつ行くんだ」
「来月」
「そうか、来月か」
もうすぐだな、と利家が言った。は頷いた。
「ったくよ、水くせぇじゃねえか。言ってくれりゃ良かったんによ」
「恥ずかしくて。ごめんなさい」
「……冗談。構わねえよ。俺もまつと一緒になるって言った時はすっげえ恥ずかしかったから、お前の気持ちも分かってんだ」
「……」
「幸せになれよ」
「……うん」
ありがとう――。
言ったつもりだったが、喉に引っ掛かり、声が出なかった。
利家と会ってから懸命に堪えていた涙が、頬を濡らし、膝元に落ちた。もう、無理だと思った。
利家の腕がの肩を抱いた。は利家の胸に顔を埋めた。
「良い奴か」
「うん」
「なんかあったら、すぐ来いよ」
「うん」
「喧嘩したらよ、俺が文句を言いに行ってやる」
「うん」
「頼れよ。お前の為なら何でもすんぜ。愚痴でもなんでも、聞いてやら」
「うん」
利家は、がこの四年会わなかった理由を、に想い人ができたからだと思ったらしかった。
そしてその想い人が、の嫁ぎ先だと信じているのだろう。
「慶次、なんて言ったと思う」
は利家の胸の中で首を振った。
「叔父御よりは知ってるつもりだと、そう言ったんだ」
「確かによ。この四年、お前と会わなかったが、会わねえからお前との縁が薄れるとは思っちゃいねえ。お前との仲は、そんなもんじゃねえんだ」
利家の腕の力が強くなった。
利家は優しく、酷い男だった。今も、これから先も、それは変わらないだろう。
利家がまつを妻にしてから、利家を想う気持ちが苦しくなっていた。好いた男は既に他人の男なのだと思うと、胸は刺されたように痛んだ。
会うごとに、利家への想いは強くなった。苦しみは増した。その苦しみを癒すのは、利家の温もりと、まつは妹で、自分が女なのだという誇りだけだった。
が、四年前、まつが男児を出産したと聞いた。
跡継ぎが生まれなければ、やはりを嫁にもらえば良かったと利家が詫びてくれると思っていた。男児が生まれたなら、が利家の妻になれる少しの希望はなくなっていた。
現実を知り、大きな悲しみが躯を包むと同時に、私が妹だったのだと、は漸く気付いたのだった。
慶次は知っていたのだ。
が利家にどんな想いを抱いていたか、どんな想いで会っていたか。
それに対して利家が、何も知らない優しさで、に温もりを与え続けていたことに。
が利家を忘れることは簡単には出来ない、ならば何処かに嫁いで、大事にされる幸せの中でいつか忘れられる時を待つべきだと考えたのだろう。だから、に嫁ぐことを勧めたのだった。
「お願い。もっと、強く抱いて」
更に強くなる腕の力に、躯が壊れてしまえばいいと思った。
利家は、嫁ぐ不安で一杯のを抱きしめている。は、好いた男に抱かれている。
それで良い。もし、がまことを伝えれば、利家は抱きしめてくれない。
の脳裡に、利家と過ごした日々、鮮やかな紫陽花に包まれる二人の姿が浮かんできた。
あれから時が経ち、は一人だが、利家は一人ではない。二人だけの場所だった此処も、今はそうではなくなっている。利家はの手ではなく、まつと、子供達の手を引いて訪れるだろう。
利家に貰った紫陽花は、水に差してももう駄目だろうと思った。
14.8.16
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