屋敷から出てすぐ、五右衛門は吐き捨てるように呟いた。門を振り返り立ち止まるが、五右衛門を追いかけてくる者は誰もいなかった。
「ちくしょうめ」
ぺっ、と唾を飛ばす。
四方を山に囲まれた国、伊賀国は忍びの里である。伊賀国の小さな村、石川で生まれた五右衛門は十五の歳を過ぎてすぐ、服部、百地、藤林の三大上忍家の一つ、百地の三太夫に弟子入りをした。
五右衛門が鼻水を垂らしていた小さな子供だった頃には服部家が一番に権力を持っていたのだが、服部家当主・保長が徳川に仕えて伊賀を離れてからは百地家が伊賀国の長であった。残る上忍家、藤林家については、やってのけた忍び働きの噂も何も聞こえてこず、まして当主は屋敷に引きこもっているのか、一度もその姿を見たことがなかった。
すると、幼い頃の五右衛門――文吾は、百地家こそ優れた忍びである、と思ったのだ。
表に出てこない藤林なんかよりも、百地の弟子になった方が一流の忍びになれる――そのような単純な考えで三太夫に弟子入りをしてしまった文吾に、未来の文吾は拳骨をくれて、お前がよおく考えなかった所為で俺様はこんな目にあっているんだぞ、と説教をしてやりたかった。今こそよく考えてみれば、生きているのか死んでいるのか、何の仕事をやっているのか誰にも知られぬ藤林の方が、正に忍びらしかったのだ。
師匠である三太夫から「武士の屋敷から盗ってこい」と言われたのが半月前である。
時々そのような命令を下されることはあった。が、半月でこなせと言われたのは初めてであった。武家ならば当然、屋敷の中に人も沢山いるし、使用人だけではなく腕の立つ従者も住んでいる。数ある武家屋敷から安全に盗れる屋敷、日時、目当ての品を探し出すには一月以上の余裕が必要だった。そう五右衛門に教えたのは、三太夫である。
――ま、俺様ならやれねえこともねえが。
師匠も漸く、俺様の実力を認めたのだろう。だから、無理な仕事を持ってきたのだ。これを見事にやってみせたら、俺様に盗術以外の大仕事を任せるに違いねえ。盗術ばかりしか教えてもらえぬことに不満を持っていた五右衛門は一人納得した。三太夫に、任せやがれ、と言うように大きく頷いて見せた。
「何でもいいのか?」
「君が選んだものならばね」
五右衛門はそれを聞くと、早速荷を纏めて伊賀を出た。此度の仕事は時間との勝負である。
――どれだけ苦労をしたと思っていやがんでい。
五右衛門は不満をぶつけるべく、目の前に転がる小石を蹴り飛ばそうと足を後ろに振り上げた。振り子のように勢いよく蹴り出したが、自慢の右足は小石の上を滑り、その反動で身体は後ろ向きに転倒した。
地面に後頭部を強く打ち付けて、牛蛙が潰れたような声を上げる。
痛みに頭を抱えて転がる五右衛門の脳裏で、先程の三太夫の言葉が木霊した。怒りが更に込み上げてきた。
俺様なら……と思っていた五右衛門だが、実際はかなり手こずった。
地味、質素なものではきっと盗るものもないだろうと、大きく豪勢な門構を選んで盗みに入る屋敷を決めたはいいものの、それだけ屋敷が大きければ人の目が多すぎて、入る隙もないのが現実であった。屋敷の広さゆえに人の手が行き届かず、何処かで守りが薄くなっているに違いねぇ、と読んでいた五右衛門は早速行き詰った。
それでも二週間じっと張り付いてみて、どうにか、週の一日だけは主人の帰りがいつもより早く、普段は主人を待って夜遅くまで起きている屋敷の者が早く眠りにつくことを突き止めた。
そして女どもの世間話に耳を澄ませてみれば、この屋敷の主人は近頃、茶器収集に凝っているらしい。話の内容の殆どが、誰が誰を好いているだとかどこそこの旦那が恰好が良いだとか詰まらぬ会話に根気よく聞き耳を立てると、どうやら、いつもより帰りの早い日には集めた茶器を全て身の回りに出し、息を吐きかけて磨いてはその茶器の美しさに溜息を漏らしているのだという。変わったことに、その夜には特にお気に入りの茶器を飾って眠りに就くようだった。その品が一番に価値あるものだと五右衛門は踏んだ。
盗みに入る三日前の日の夜に丁度よく雨が降った。今しかない、と五右衛門は闇で視界が効かぬ中、屋敷の角の垣根を飛び越えて初めて門の内側に入った。雨の強い降りのお陰で五右衛門の気配は消され、足跡は洗い流される。身を低くして屋敷に近付き、するり、と床下に忍び……込もうとしたのだが、五右衛門の大きな身体が引っ掛かった。予想外であった。
痩せておけば良かった、と後悔しながら地面の土を必死に掻き出す。徐々に徐々に、床下に身体を滑り込ませているところで、五右衛門の耳に足音が聞こえてきた。女の話し声が一緒になって近付いてくる。
「凄い降りねぇ」
「涼しくて良いんだけどね。明日、お休み頂いて出掛けるのよ。下がぬかってちゃあ嫌だわ」
日頃、下らぬ世間話に花を咲かせている女達の声であった。
うるせぇ、お前の明日のことなんざどうでもいいからこっちへくるな、と叫びそうになるのを堪えながら、男は無我夢中で地面を掻く。五右衛門の身体の大半は床下に収まりきらずに、地面の上に曝け出されている。いくら夜中だと言っても、流石にこれは気付かれる。
どんどんと足音が大きくなってきて、五右衛門の焦りも頂点に達しようとしている。
土を掻くのも諦めて無理矢理に身体を押し込む。腹も背も尻も太腿も引っ掛かるが、顔が引っ掛かるとはどういうことだ。木と地面に擦れ、身体中が痛くて涙が滲む。その涙も顔が床下に入り込むための潤滑油になってくれないのだからなんと惨い。今まで信仰なぞとは無縁だが、今だけは仏様に願った。
仏様も、なんて都合の良い男だと呆れるだろうが、お願いします、俺様の顔に免じて、今は、今だけは……。
ずり、と音を立てて完全に床下に入り込んだのと、女達が五右衛門のいる廊下の角を曲がってきたのは同時であった。
――助かった。
男は胸を撫で下ろした。もう一安心だと息を吐き出す。この仕事が終わったら仏様に拝みにいこう、そう決心した瞬間に、足音が五右衛門の上で止まった。
「さっき、音がしなかったかしら」
身体中の毛穴から汗が噴き出した。馬鹿野郎、音なんざ出してねぇぞ、五右衛門は頭上で立ち止まる女に首を振った。
「しないわよ。雨音でしょ」
「いいえ、聞こえたんですもの。私、目は悪いけど耳は良いのよ」
咄嗟に五右衛門は口を塞いだ。どうやら先程の安堵の溜息が聞こえたようだった。
こら、旦那様に叱られるわよ、と声がした後、何かがぬっと床下を覗いた。
「何にも見えないわ……」
女の顔である。五右衛門は絶句した。
「おやめなさいな。どうせ犬か狸でしょ」
女の顔が揺れる。もう一人の女が身体を揺さぶっているらしい。頼む、そのまま引き上げてくれ、五右衛門の緊張は息をするのも忘れる程である。
「あ、いるわ!何かいる!」
終わった――さあ、と血の気が引く感覚を覚えた。やっぱり何かいる、と騒ぐ女の声が聞こえ、五右衛門の意識は朦朧としてきた。
わん、と鳴いたのは一か八かであった。もうどうにでもなれ、と半ば自棄になっていた。五右衛門の心臓が今までになく跳ね上がり、身体を突き抜けて出て行ってしまいそうだった。
騒いでいた女の声が聞こえなくなった。それから此方を覗いていた顔も引き上げられた。
「ほら。犬じゃないの」
「ええ。犬だったわ」
「あまりにも酷い雨だから逃げ込んだのよ。心配なら明日の朝、様子を見に来たら?」
「いいわ、なんか鳴き声がちょっと……汚かったもの。病気を持っているかも」
女達の足音は再び進みだして、やがて聞こえなくなった。
五右衛門は脱力した。それと同時に怒りも込み上げてきた。
鳴き声が汚いとはなんだ。失礼じゃねぇか。ふんふんと鼻息を荒くしながら五右衛門は腹這いで床下を進んだ。根こそぎ盗ってぎゃふんと言わせてやるぜ、と五右衛門は心の内で呟いた。泥だらけになって身体の滑りが良くなったのか、床下の隙間に少し余裕が出てきた。五右衛門は右耳をぴたりと頭上の板に付けた。よく耳を澄ませながら、物置部屋の位置を探る。
――確か、ここいらだったよな。
短い偵察期間の中で大体の屋敷の間取りも把握していた。五右衛門は鼻先を板張りの隙間に押し付けて深く息を吸った。埃と湿気っぽい黴の匂いがした。よし、と舌で唇の周りを舐めてから、胸元から短刀を抜き出して切っ先を板の隙間に差し込む。その隙間で刃を上下に滑らせてみて引っ掛かったところで小刻みに引いて、押して、を繰り返す。予め短刀の刃には細かく切れ込みを入れておいた。小さな鋸となった刀で床板を徐々に切り取るのである。
すると、天上で雷鳴が鳴り響き始めた。今日は天が味方してくれてるぜ、と短刀の動きを早くする。今日は進路の確保だけにしようと思っていたが、この雷の音に紛れて、屋根裏までへの侵入を済ませてしまおうと考えたのだ。
最後の板を切り取り、五右衛門は床上に頭を出した。辺りは真っ暗で、触った床には吸い込んでしまいそうな細かい埃が薄く敷かれている。此処が物置部屋で間違いないらしい。
大きな身体をどうにかして引きずりあげ、壁際の床にぽっかりと空いた穴を、手探りで掴んだ木箱を載せて隠す。計画では盗みが終わった後、再びこの穴を通って外に出る予定である。
五右衛門は部屋の戸の近くの天井を見上げた。部屋の奥の方の天井に細工をするよりも入口近くの方が人の目が向きにくく、気付かれにくいのだ。
今度は先程よりも近くで雷が鳴った。五右衛門は急いで積み上げられた荷物の上に登り、天井に手を伸ばした。
短刀の刃に詰まった木屑を指で取り除いてから、また板の隙間に差し込んだ。床板よりは薄いらしく、切り抜く速さも上がっていく。この手の侵入方法も、今の五右衛門には慣れたものである。三太夫には本当に盗術ばかりを教わり、盗術ならば他の弟子達にも負けない自信があった。
――たまに、本当たまぁに、それも百に一の割合……いや、千に一の割合でしくじることもあるが、俺様の腕は確かなもんだぜ。
五右衛門は短刀を口に咥えて両手で天井を押した。簡単に板が外れ、にやりと口元が弧を描いた。
侵入に成功はしたが、それからの天井裏での生活は苦痛であった。生活と言っても凡そ二日しか住んでいないのだが、どうしても鼾を掻いてしまうので眠れず、また腹が減っては大きく鳴ってしまうから音を立てずに、石のように固い兵糧丸を食らわねばならなかった。そして何より辛かったのは天井裏の先住民、鼠との暮らしであった。鼠は丸一日中、五右衛門の周りを徘徊し、隙さえあれば噛みついて五右衛門を追い出そうとし、嫌がらせなのか糞を大量にばら撒いた。流石の五右衛門も強烈な悪臭により卒倒しそうになった。この臭いが屋敷の者達にばれたらと考えると五右衛門は冷や汗も止まらなかった。
遂に実行日を迎えたとき、睡眠不足で朦朧していた意識は自然とはっきりとしており、五右衛門の身体は強い緊張感に包まれていた。
天井裏の五右衛門は腹這いで主人の自室へと向かい、予め開けといた覗き穴から主人の様子を窺った。
主人は痩せぎすで、神経質そうな目つきの鋭い男であった。幾度となく五右衛門はこの男を観察しているが、まだ誰かと話しているのを見たことがない。寡黙な人間のようで、首を縦に振ったり横に振ったり、手を空中で揺らめかせたり目で何かを訴えたり、意思の伝達はおおよそそういうもので行われている。見た目からして戦場で活躍する武将というよりも机に向かって書面に筆を走らせる文官なのだろうと思われるが、ここまで寡黙だと仕事に影響が出ないものかと疑問である。
そんな、笑顔とは無縁そうな主人が無垢な子供のように目を輝かせて、ある一つの茶器を磨いていた。それが五右衛門の狙いのものである。数日しか彼を観察していない五右衛門でも、なんて幸せそうなのだと思った。きっとこれが男の生きがいに近いのだろう。
暫くして、主人はその茶器を出したままにして眠りに就いた。一刻もすると寝息も大きく聞こえるようになり、深い夢の中に沈んでいる様子である。
五右衛門は静かに天井板を外し、梁に結び付けた手ぬぐいを長く繋げたものを下に垂らした。それをぐいと力強く引いてみて、己の体重に耐えきれるか確かめる。
――よし。
五右衛門は一度深く呼吸をしてから、天井裏から足を出した。手ぬぐいにしっかりと掴まって、ゆっくりと主人の自室へと降りる。
足の指先が畳に着く。繊維の擦れた音がして、五右衛門は慌てて主人を見るが、依然として眠ったままである。
目当ての茶器は主人の枕元にあった。五右衛門は足の爪先で静かに歩き、主人に近付いた。
生唾を飲み込んで、ゆっくりと茶器に手を伸ばす。もう少しで触れるというところで、五右衛門は主人の寝顔を見た。その顔に、ただの茶器を大事そうに磨く、一人の男の顔が重なった。
五右衛門は手を引っ込めた。
――俺様にはどうも、価値のあるもんにゃ見えねえのよ。
五右衛門は狙いの茶器に背を向けて、押し入れの戸をゆっくりと開けた。中には茶器の詰まった箱がある。木箱の蓋を一つ一つ開けてみて、主人を盗み見ていた折に目についた茶釜を見つけると、それだけを風呂敷に包んで自分の身体に縛り付けた。
五右衛門は再び、天井から垂れる手ぬぐいに掴まった。このまま天井裏に戻り、物置部屋の穴から床下に、そして屋敷を抜け出す。短くも長くあった半月がようやっと終わるのだ。
畳から両足が離れ、ゆっくりと上にあがる。両腕で必死に身体を引き上げていく五右衛門の目に、天井裏の闇の中で動く、怪しい赤い光が見えた。なんだありゃあ、と腕の動きを止めて、目を細めた。
――あっ。
五右衛門は息を呑んだ。
なんと、小さな赤い眼を持つ天井裏の先住民たちが、五右衛門がしがみつく手ぬぐいに噛り付いているのである。
馬鹿野郎、やめろ、と小声で必死に訴えかけるも、鼠共は止めぬ。虚しく、沢山の鼠の歯で傷つけられた手ぬぐいは五右衛門の体重に耐え切れずにびりびりと音を立てた。手ぬぐいが大きく裂けるのを見て真っ青になった五右衛門を、鼠たちはちゅうちゅうと鳴いて、まるで喜んでいる様子。
びっ、と手ぬぐいが完全に裂けたとほぼ同時に、ぶら下がっていた五右衛門は大きな音を立てて畳の上に落下した。
背を打ち付けた痛みを感じるよりも早く、地響きで揺れる屋敷と、それに飛び起きた主人が見えた。頭の中は真っ白である。
主人は、両腕を天井に伸ばした姿勢で固まっている五右衛門を見つけると、素早く目を移して枕元の茶器の無事を確認した。そして盗人に何を叫ぶことなく、無言で部屋の奥に掛けられていた刀を抜き放った。五右衛門の視界の端で、刃がぎらりと輝いたのが見えた。
――おい。こりゃあ、絶体絶命じゃねえか。
じり、と主人が近付いた。瞬間、五右衛門は転回、胸元から取り出したものを強く床に叩きつけた。はじけた音と共に、すぐさま辺り一面に黄色がかった煙が充満する。煙を吸い込んで咳き込む主人。五右衛門は横に転がって素早く身を起こし、畳を蹴った。
「あばよ!!」
障子を体当たりで破り、廊下へと駆ける。主人も咳の止まらぬ口元を覆いながら五右衛門の後を追いかけてきた。
部屋の明かりがぽつぽつと点き始め、人の声が聞こえてくる。先程の落下の振動や騒々しい物音で、屋敷の者が起きたようだった。どたどたと駆ける五右衛門の前に飛び出してきた家臣を、勢いよく跳ね飛ばす。庭まで転がった家臣が、曲者じゃ、と叫ぶ。途端に部屋という部屋から槍を持った男達が出てきて、走る五右衛門のすぐ後ろを刀を振り回した主人、その後ろを家臣達が続いた。
「止まれ!曲者!」
「ええい!止まらんかでかぶつ!」
「妖怪!」
「止まれい!盗人め!」
「誰が止まってやるかよ!ってか妖怪って言ったの誰でい!!」
廊下の角に差し掛かると奥から大量の家臣達が出てきて、五右衛門は直角に進行を切り替えて庭へと飛び降りる。目の前の池を跳ねて飛び越え、ごろごろと転がりながら着地すると、その勢いのままに木によじ登り、塀に飛びついた。五右衛門の熊のような大きな体格からは予想だにもしない動きである。
五右衛門は塀を登り、屋敷の外へと飛び降りた。追いかけたり、ただ駆ける時は、見た目通りの、足に重りを付けたような鈍足であるが、逃げの足だけはとことん速いと言われる五右衛門であった。
五右衛門は無我夢中で駆けた。一晩中止まることなく駆け続け、伊賀の三太夫の元へと向かった。
盗むものは何でもいいのかと聞いた五右衛門に、君が選んだものならば、と応えたのは誰でもない、三太夫であったのだ。
それなのに、三太夫は茶釜を手にして一言。
「やはり君は出来損ないだ」
茶釜を畳の上に転がしたのである。
呆然とする五右衛門に三太夫は笑いながら、持って帰るといい、私は要らないよと言い、奥に下がろうとした。
「ま、待ちやがれい。何でもかまわねえと言ったのは、師匠だろうが」
どうにか声を発した五右衛門に、三太夫は視線を向けることなく言った。
「確かに、君が選んだものなら何でも、と言ったね。だから私は、君の目にがっかりしたのだよ」
「君は、私の失敗作だ」
五右衛門は三太夫が言いきらぬうちに、茶釜を胸元に押し込んで屋敷を飛び出した。五右衛門の後ろにいた弟子仲間も、三太夫の言葉の理不尽を思った筈だ。なのに、誰も五右衛門を追いかけてきてはくれなかった。皆、五右衛門よりも大事なものがあったのだ。
――仕方がねえ。そんなもんだろ、忍びってやつは……。
もし己が仲間の立場であったらと考えても、それはおかしいんじゃねえのか、と三太夫に意見する自信が無かった。だから到底彼らを責められぬのだが、しかし、なんとも泣けてくる。三太夫と仲間に向ける怒りは、認められなかった己と、矛盾している己へ向ける怒りと同義。仰ぐ先にある憎いほどの空の青さが五右衛門の目に染みてきた。
「ちくしょう……」
滲んだ視界を右腕でごしごしと強く擦る。強く打った頭の後ろや擦りすぎた瞼がひりひりと痛むが、それよりも胸の重苦しさが辛かった。
五右衛門はゆっくりと身体を起こし、ぽつぽつと歩き始めた。特に行くあてもないので、今日は歩ける所まで歩いて、里から、三太夫から離れようと思った。
三太夫への愚痴をずっと思っているうちに、どれぐらい歩いたのか、陽は山に隠され始め、広がる空が燃えたようになっていた。
五右衛門は何度目か分からぬ溜息をついた。
このまま伊賀に帰らずとも良いのなら、違う国で大盗賊として名を上げ、美人な妻を娶り幸せに暮らすのだが、残念なことにそうもいかない。
――抜け忍は追われて殺されてしめえよ……。
以前、任務で他国に潜伏していた忍びが潜伏先の町娘に惚れて恋仲となり、二人が幸せに暮らす為、任されていた仕事、忍びという生き方を全て放って逃げ出したことがあった。
伊賀は逃げ出した男を追い、遂に探し出した男と娘を問答無用で殺したのである。娘が身ごもっていたのも伊賀の忍びには関係なかった。
抜け忍は必ず始末せよ、が伊賀の国の掟なのである。それがどんな理由で取り決められたものか知らずとも、伊賀に生まれたその瞬間、国の為に生き、国の為に死ぬという運命が決まってしまっているのだ。
ふと五右衛門が顔を上げると、進む道の先に、近くの村人なのだろうか、数人が立ち止まって何やら話していた。
顔色を見れば、会話の内容はあまり良くないものであるらしい。
やがて五右衛門がその村人たちの横を通りすがる時に、
「可哀想だったねぇ」
と、聞こえた。
「だって、まだ若かったんだろう?大人びた顔していたけど十六かそこらで……」
「だけど身体が弱い子でさ。ここまで生きられたことが奇跡だったのだと、親御さんが言っていたよ」
「へぇ、そうだったのかい……」
五右衛門は村人の視線の先を見た。丁度、大きな樽が地面の奥に入っていく時だった。
もし伊賀から逃げ出したら俺もああなるのかと、白面の、樽に押し込められた己を想像する。
もっとも、伊賀忍に殺されれば樽なぞには詰めてもらえず、地に撒かれる鴉の餌にされるであろうが。
――まだ、死にたくはねえなあ。
五右衛門は立ち止まり、元来た道を歩き出した。村人が五右衛門を不審そうな目で見てきたので、いけねいけね、と宿に忘れ物をしたかのように小走りで通り過ぎた。
伊賀に戻ってきた頃には、すっかり夜も更けている。満月より少し欠けた月が、生い茂る木々の隙間を縫って五右衛門の足下を照らす。
今歩く道をまっすぐ行くと、五右衛門が弟子仲間と衣食住を共にする長屋があった。そこに帰って眠るのが常であるのだが、昼間のこともあって、長屋を目指す足が止まりがちになる。と言っても夜遅くに訪ねてくる己を泊めてくれるような友人も、もういなかった。考えた結果、今夜は森の中で眠ることにした。近頃の夜の過ごしやすさも、真冬の身も凍り付いてしまいそうな寒さをすっかり忘れている程で、昼間の温かさが残る地面に横たわれば、男達の臭いが染みついた長屋で眠るよりも気持ちよく眠りにつける気がした。
五右衛門は道を逸れ、一層暗がりの濃くなる方へ進んだ。一人、野宿するのも初めてではない。森の中には五右衛門の決まった寝場所がある。長屋を西方向に離れて暫く歩くと、水溜りが大きくなった程度の池があり、そこに流れ込んでくる川を上に辿る。次第に、土砂の川底から、鱗のように重なる岩の上を川の水が薄く流れるようになれば、水音が耳に心地よい具合になってくる。
五右衛門は川から少し離れた木の根元に腰を下ろした。両腕を頭の後ろに組み、ゆっくりと瞼を閉じる。
半ば野生のように暮らしてきた五右衛門にとって、川のせせらぎは子守歌のように聞こえた。今はもう思い出せぬ母の子守歌も、きっとこのように心安らぐものであったと思う。ここ半月の疲れも然程取れていなかったからか、五右衛門の意識はすぐに遠くなった。
いよいよ、眠りに落ちそうになったところで、ぱちり、と小枝の折れる音がした。五右衛門は再び眠りの淵から浮かび上がり、すぐさま上体を起こした。五右衛門に聞こえたそれは森の獣ではない、人の足音である。眠気にぼやける視界を、瞼を擦って鮮明にする。どうやら足音は、対岸から聞こえてくるようだった。耳を澄ますと、音は小さく、細やかである。人物の歩幅は狭く、体は軽いようだ。子供か、女だと思った。
しかし、何故こんな夜更けに女子供が出歩いているのだろう。散歩をするには些か遅すぎる時間帯である。
足音が五右衛門の耳に近付いてきた。深い夜と緑の狭間から、足音の主が姿を現した。青白い月光に照らし出された身体は白い着物を身に纏っている。華奢な身体つきをした、女である。
女が俯きがちの顔を上げて天を仰ぎ見た時、五右衛門はその女の姿に見入った。
――おい、ありゃあ……。
横に流すように束ねられたたっぷりと濃い黒髪。額から鼻先、顎、首筋にかけての滑らかな曲線。遠くを見据えた瞳はどこか儚く、散り際の桜が魅せる最高の美を彷彿させる。
五右衛門の心臓が早く鼓動する。月明りを受けて輝くその女の姿を、五右衛門は、天女のようだと思った。
――なんでこんな山奥なんざに……。
惚けると同時に、そう思った。伊賀に住まう女共は美しい形をしてはいるが、その姿からは忍び特有の、獣だとか血の気の多さが滲み出ていて彼女のような人を引き付ける麗しさを持ってはいない。確実に伊賀の者でないことが分かる。しかし、伊賀者でないなら何故此処にいるのだろう。迷い込むにしてもこの伊賀にそれが出来る筈はない。
思考を巡らせていると、女は天を仰いでいた顔を正面に向けて、再び歩き出した。五右衛門もゆっくりと腰を上げ、対岸から女の後を追った。
水の音が大きくなっていく。
五右衛門は前方を見据えた。この先には滝がある。そして滝の水が落ちるところには、山から流れ落ちてきた石や流木が水流に乗って、長い年月をかけて地面を削って掘った、円柱状の穴が空いていた。所謂、甌穴と言われるものである。
この甌穴は逆柳の甌穴と呼ばれ、かつて伊賀地域を治めていた藤原千万という将軍が朝廷との闘いの際に打ち取った敵の首を次々に投げ入れたと言われている。
残念ながら藤原千万は朝廷により討たれてしまうが、この逸話は伝説として語り継がれている。伊賀に雨が降らぬ日が続けばこの甌穴から石を取り出し、藤原千万を怒らせて雨を降らせるなどという何とも罰当たりな雨乞いも長い間続けられていた。
不気味なものでしかない、と五右衛門は思っている。またの名を、血首ヶ井戸とするこの甌穴に、藤原千万の勇猛果敢ぶりに感服するなぞもってのほか。ただただ、血生臭い、伊賀にお似合いな不気味で地味なあなっぼこ、としか思えなかった。
女はそんな穴を見つめている。暗闇の中ゆえ、五右衛門からはしかと確認することはできないが、渦を巻いた激しい水の流れがその穴の中に収まっている様子は想像ができる。
女は岩肌に膝を付いた。胸元から一本の縄を取り出して、折った足を二本纏めて強くしばった。
五右衛門の額に汗が滲む。女が己の両膝をきつく縛りあげた後、懐から短刀を取り出すのは容易に想像が出来た。
「そんなこたあ、しちゃならねえ」
気づけば、五右衛門は川の向こう岸に叫んでいた。驚いた女が手にする短刀を落とした。岩に当たって響いた甲高い音が夜の闇に響いた。
「駄目だっ。しちゃあならねえよ」
とにかく、五右衛門は必死であった。
川辺から大きく身を乗り出している五右衛門を、女は見つめた。その膝元で月の明かりを受けて光るものがある。
二人の間には太い川が流れ、四間程の距離が空いている。もし、女が再び短刀を手にし、胸元に突き立てようとすれば、五右衛門には短刀を奪い取ることも、どうすることも出来ない。
「あんたに何があったのか、俺様には分からねえ。けど、死んでほしくねえんだ、止めてくれ、頼む」
名も知らぬ、初めて会った女を、五右衛門は死なせたくないと思った。その美しさに魅入ったからなのか、それとも女の鬼気迫る表情に感じるものがあったからなのか。理由なぞはどうでも良いと五右衛門は脳内での思考をかき消した。ただ、自ら命を絶つのは間違いであるということだけを五右衛門は知っている。
女は五右衛門の顔から眼を逸らし、足元に落ちる短刀に手を伸ばした。五右衛門は息もせずに、女を見守った。
女は短刀を見つめ、考えているようだった。決断の迷いは、実際はほんの数秒であっただろう。が、五右衛門にはとてつもなく長い時のように感じた。
細い指先に握られた短刀の刃は、女の両膝をきつく括っていた縄を、ぶつり、と両断した。脚が自由になると、女はゆっくりと立ち上がった。短刀が鞘に納められたのを五右衛門は確認した。
――ああ、良かった……。
安堵に力が抜ける。肩だけとは言わず、全身の緊張がどっと抜けて、五右衛門はその場に座り込みたい気分になった。
そのまま何事も無かったように森の奥へ消えようとする女が、川辺に残していく五右衛門が気になったように後ろを振り向いた。再び女に見つめられ、五右衛門の心臓が跳ね上がった。
「あ……。え、ええっと……」
掛ける言葉を探しているうちに、女は前を向きなおして夜の闇に姿を消した。一人きりになった五右衛門は意味もなく空中を泳がしていた両手を見つめて、ついに思いとどまった女に何の言葉も掛けてやれなかった己の情けなさに息を吐く。
突然の事態に焦って叫んだものの、普段ならばあのような美しい女子に声など掛けられる男ではない。
しかし、短刀を手にした女の覚悟を、五右衛門は見た。幸い、ことが起きることはなかったが、女が命を捨てようとしていたのは事実であり、今もなお、生き死にの狭間に女は立ちすくんでいるに違いなかった。何かきっかけがあれば、また短刀の刃を己の胸に向ける筈だった。
ふと、五右衛門はあることに気が付いた。
――こんな俺様を、失敗作だと言うんだろうな。
五右衛門は、確かになあ、と呟いた。失敗作という言葉が、今朝三太夫に言われたものとは確かに違うものとして響いた。五右衛門の胸に小さな明かりが灯ったのは明白であった。
2016.8.11
<< END >>