この年は織田信長が家臣明智光秀の謀反によって変死する、一年前の時であった。
夏の夜気が暑く垂れ籠めている。
この中で、杉の枝上から、黒鳥がじっと下を見つめている。
何時からいたのかは分からない。湿りを帯びた土の上に、いつの間にか一人の女が転がっていた。
胸は程好く膨らみ腹は括れ、着物からは白い脚が大胆に飛び出しているものの、些か、幼さが残っている。肌からは男を知らぬ若さが漂っており、そして、人が生きる内に味わう障礙の四半分も味わったことが無い、綺麗な顔をしていた。
すると、女よりは娘と呼んだ方が相応しい。
ぴくりとも動かない娘の躯を、黒鳥は啄もうとしているのだ。
突然、その娘が、うう、と唸って躯を横に立てた。
死肉で無いことを知った鳥が残念そうに一鳴きして、闇の奥へと翔び去る。
肌に吸い付く温い土に不快を感じたのであろうか、躯を捩った娘が、やがて小さな面を歪ませ、覚醒した。薄い瞼を擦りながら起き上がり、己の周りへ首をまわす。
何処も漆を塗りこめたような闇である。
黒の幕に囲まれた此処は、この娘を夢と現実の境でさまよわせた。
娘のいる此処は、夢ではない。
人の住む場所から少し離れた、深い森の奥である。人が入ることを、禁じている森である。
木々が隙間無く立ち、昼間であっても地上に届く陽射しは少なく、森の中はいつも薄暗い。
その薄暗い空間では方向の感覚を失って誰もが迷い、外へ出れなくなってしまう故、人はこの森に入ることを禁じ、この周辺に住む者ならば幼き頃から「あの森に入るな」と教えられ、誰もがその教えを固く守っているのだ。
そんな森林の夜闇の中で目を覚ましたこの娘――は己の目覚めた場所がそのような地であることを、知らないのである。
娘の、困惑に満ちた表情がそれを語っていた。
暫く呆然と周りを見渡していたは、見える景色に未だ疑問を抱きながら、ゆっくりと立ち上がった。己の指先が見えぬ程の闇であったが、これに慣れてきた瞳に、漸く、鬱蒼と生い茂る木々が映り込んできた。
(ここ、何処なの?)
そのような思いがを焦らせた。
「ど、どうしよう……」
上から注ぐ月明かりが天上から木々同士の隙間を縫い、線となって地上を照らしている。
それを遮るようにして、は恐る恐る、木と木の間を潜るように歩き始めた。
かなりの距離を歩く。
だが、歩いても歩いても、同じ景色が延々と続くだけであった。
こうした自然に惑わされたの顔が不健康そうに青白くなり、じわじわと増幅していく恐怖に瞳が潤む。
桃色の唇がきゅっと一文字を結び、今まさに泣き出す瞬間である。
「わ……」
踏んだ土が崩れ、の躯が地を滑る。そして、膝程の高さがある、木の葉が被さる地へ尻を落とした。
闇にばかり目をとられ、足場の心配をしていなかった。柔らかな土と葉があったが、娘の躯に、鈍い痛みが走った。
「い、た……」
眉が弓張りの形に歪んだ。
躯を前に起こしつつ、は地から突出していた木の根に指を掛けた。その指にざらりとした木肌を感じた時、左横が明るく灯る。
顔を向けると、頼り無げな明かりが樹林の奥から洩れている。
娘の表情が輝き、上気した。
(人がいる!)
心の内で叫んだ。
は素早く立ち上がり、走り出した。
娘の周りを囲んでいた荒肌の木達は、進む度に少なくなり、隙間から洩れる橙色の光りは一層と強くなった。
これは希望に近付いているということであり、明かりが大きくなるにつれて娘の表情は安堵に満ちる筈である。
しかし、そうならない。
ある距離で、この明かりの正体は己の探していたものではない……と知った表情になった。
が見た明かり――それは希望では無く、娘の見開かれた瞳には実に残酷なものが映り込んだわけである。
空に伸びた大きな赤い柱。
闇に舞う火の粉塵。
燃えていた。壁のように、暗い闇の向こう側とを遮断している。
無防備なの躯を炎の熱が包み、一瞬にして汗を滲ませた。こうして、衝撃を受けた娘は言葉が出せぬまま、聳え立つ炎を真っ直ぐに見つめていた。
そして、この炎は例え難い悪臭を漂わせている。どうやら、木や草が燃えているのではなく、違う何かが、この赤い炎に包まれて焦げているようだ。
吐き気を誘う程の悪臭を放ちながら……。
立ち竦んでいたがこの臭いを捉えると、口許を両手で押さえ、前屈みになった。込み上げてきそうになるものを懸命に耐えようとし、固く瞑った瞳から涙を落とした。
(これは、何なの……)
その動きで夜の闇に溶け込む黒髪が別れ、隠れていた娘の項が月明かりに晒される。
「うっ」
生命の糸が、ぷつり、と切られたかのようにの表情から力が抜け、膝が折れた。
どう、と娘の躯は土の上に崩れ落ちる。
まるで死人のようとなった頬を轟々と燃える炎が照らし、そして闇が更に濃くなっている部分――後ろの存在をも照らした。
夜空に浮かぶ黄色い月のように、その者の双眸は闇に光る。
しかし、物に明かりを遮られる月とは違って、この瞳はどの場所も照らすようだ。誰もがこの瞳から隠れる場所を失うようだ。
その者は娘の躯に手を伸ばした。
ぐったりと項垂れるの面を見つめ、よく観察するように一瞬目を細めたかと思うと、二人の姿は忽然と、夜闇から消え失せていた。
13.4.11
・
・
・
<< END >>