NOVEL  >>  Long Story  >>  story 01
ドリーム小説 「おお、そうか。ご苦労であったな、半蔵」

空が白んでから、まだ間もなかった。
浜松城を訪れた半蔵が主である徳川家康に昨晩のことを報告すると、家康はふくよかな頬に笑窪を作って、己の懐刀を労った。
家康が命を狙われるのは珍しくない。それが人の上に立つ者の運命(さだめ)である。
度々、 こうして家康を狙う暗殺者を始末している半蔵にとって、それが日常であった。
家康は、己の身を呈して主君を守る半蔵に日々感謝をする。それは勿論、半蔵に限らず、他の家臣にもである。
何処かの大名とは違い、家臣が主を守るのは当然と思っていないところが家康の家臣への思いが強いことであり、家臣が家康を慕う理由の一つでもあるのだろう。

「して、半蔵。その者は……」

家康が小さな目を開き、半蔵の横を見つめた。
早朝の冷たく清々しい空気と、畳の青い香りが充満したこの一室には、家康と半蔵が座し、また、もう一人が存在していた。
半蔵があの森で捕らえた娘である。
白の布地へ藍の細かな刺繍を施したものを、肩、胴から膝上までを覆うように複雑な縫い付けをした、この時代に不釣り合いな着物に身を包んで、畳の上にぐったりと横たえている。
家康は、この娘が死んでいるのかと思ったらしい。不安な目付きとなったが、娘の躯が微妙に上下し、肌にはほんのりと生気の色があることを認めて、家康は安心したように強ばった表情を崩した。
ちらり、と傍らの娘を見やった半蔵が、娘の細腕を掴んで畳の上を引き摺り、家康の前へと差し出した。
随分と乱暴な所業であるが、娘は一向に目を開かない。

「半蔵」
「その場にこいつが」
「うむ……」
「不審ゆえ」
「確かに、民のようには見えぬが……」

家康は胡座を掻いたまま、興味深そうに身を乗り出した。
短い丸太のような躯が前傾する。

「む……」

少し背を曲げて下から眺めてみたり、首を伸ばして見下ろしてみたり、躯を傾け、横から覗いてみたりする。
三方から、まるで針の穴を覗くように観察した家康は、低く唸りながら上体を元の位置に戻した。
体勢は戻したが、娘を眺めるその顔は眉はぎりぎりまで上に寄せ上げ、 口はへの字を描いた悩める表情のままだ。
娘の着物には血痕がべったりと付いている。これは半蔵がを掴んだ時に付いたものであり血は渇いて、黒い色となっていた。
家康はその染みから、夜の惨劇を思い浮かべたようで、次には眉も口も落ち着かせ、半蔵へこう訊ねた。

「お主はどうする」
「どう、とは」
「この娘を忍びの一人とするか、ただの民とするか……」

半蔵は家康の言葉を聞き、視線を逸らすことなく、

「影に言葉は」
「よい、申してみよ」

”影に言葉はない”
主に意見する存在ではない、と言ったのだが家康はそれを構わず催促をする。男の双眸が興味深そうに輝いた。

「……」

だが、無表情でじっと相手を見据えたまま、半蔵は声を発しない。
この服部半蔵という忍びは少々――いや、かなり固いところがある。
それも”忠義を重んじる忍び”の性質である。
忍びとは己が仕える者の背後で生きる、影の存在である――ということを信念にする者達だ。
その一人である半蔵は、己が仕える主に何を言われてもこの”忍びの信念”だけは崩すことがない。
家康は頑固な己の懐刀に、つい、頬を緩ませた。

「その者の処置はお主に任せよう。民であったならば、里へ送り届けてくれ」

徳川家当主の顔となった家康が言う。

「……御意」

返事をして間もなく「御免」と半蔵は家康が瞼を下ろした一瞬の内に消え去った。傍らにいたも共に姿を消した。
家康は陽の下であっても見事に姿を消してみせる半蔵に幾度か頷いて感服しながら、脇息へこれ以上に躯を預けた。

「物騒な時代となった」

家康が思うに、若い娘が惨劇の場で半蔵と居合わせただけで、その娘の素性を調べ、ただの民であることを確認出来るまでは里へも返せず、忍びだった場合はそれが子供であろうと女であろうと始末をしなければならないこの時代は人を信用出来ぬ悲しいものであった。
大名同士が忍びや間者を使って互いに腹の探り合いをしている中、今やそういう時代になってしまった……と考えている。

(いや……)

気付き、空を仰いだ。

(物騒でない頃など、無かったか)

写る景色は、かつて家康が今川の人質になっていた時に見た空と同じ色であった。
時代はいつでも物騒なものだったのである。



半蔵の屋敷は浜松城から忍びの脚で半刻、馬駆けでその半分の位置にある。
人目の付かぬ場所に建ち、見た目も武家屋敷ではなく、質素な商人屋敷であり、屋敷を囲うように塀が立ってその内側に木が植えられている。
そして仕える下女も屋敷に通って仕事をする者達も片手で数えるほどだ。(そしてこれらは全て伊賀出身の者であった。)
こうした、まるで豪華と言えぬ屋敷から、誰も、多くの伊賀忍を従えた浜松城城主の懐刀が住していると思わない。
半蔵は音も無く庭に降り立つと、丁度良く現れた下女の一人にを預け、己は自室へと向かった。
自らの住まいだというのに正面から入ったことは殆ど無い。これも、忍びの性である。
縁側から屋敷に上がり、頭巾と口布をずり下げながら廊下を進む。
半蔵の自室前では、短い黒髪が逆立った青年が胡座を掻き、こくりこくりと頭を落としたり、上げたりしていた。

「助八」
「はい!」

打てば響くように青年が飛び起きて、その拍子に後ろの柱へ頭をぶつけた。
「痛っ!」と、痛みに声を上げたが、直ぐに目の前の上司へ向き直り、跪いた。
下忍の助八である。

「着いてこい」
「えっと……城へですか?」
「否」

それだけ言って、半蔵は助八の横を通り過ぎた。
青年は言葉の少ない上司に戸惑いながらも、腰を上げ、いそいそと男の背を追い掛けた。
二人が廊下を曲がると、先程の下女が出てきた部屋がある。
半蔵がその前で立ち止まり、助八は上司の顔を伺うように見てから、室内を覗きこんだ。

「……?」

普段使われぬことの無い一室で、見覚えのない娘が布団に寝かされている。
助八は片眉を上げ、横の男に訊ねた。

「頭領、あの女は……?」
「昨晩あの森にいた。不審ゆえ連れて帰り、殿に全てを任された」
「武田の者かも知れないと?」

昨晩浜松に集結した者達が武田の忍びだということは、既に上司である半蔵から聞かされている。

「応。それならば俺が始末を」
「はぁ」

青年はにわかに表情を歪めた。
眠り続けるは助八とたいして歳が変わらぬように見えた。
それを微妙に感じとった助八は、この娘に、少しの同情の念を抱いたわけである。
足裏が床に貼り付いたように一歩も動かない助八に、半蔵はその胸中を察したようで、

「未熟だ」

呟き、敷居を越える。
この呟きに見事に図星を突かれ、

「はぁ」

助八は武張った肩を情けなく縮めて、八十の老人のような足取りで半蔵の後を続いた。
を不審と思って捕らえた半蔵であるが、実は、が忍びではないということは分かっている。
あの夜、半蔵は屋敷へ戻ってから、目を開けそうになったに生臭い粉末――下忍が商人の姿になって営む薬屋で精製される、眠り薬である――を吸わせ更に深い眠りへと就かせた。
そして身をまさぐり、忍びである証拠の手裏剣や苦無、撒菱などの忍具を探したがは何も持っておらず、その代わりに、忍びでは致命的と言える”匂い”を持っていた。
忍びは誰にも存在を知られてはいけない。それ故、体臭については特に気を付ける。
しかし、あまりにも強く、の躯からは人の匂いが漂った。
そして修行で固くなる筈の手指の皮も、腕や脚の筋肉も並の娘の柔らかいものに過ぎなかった。
これを”ただの娘”になる変装とも取れるが、あの武田の忍び集団にそれほどの女忍びがいるとは信じ難い。
また、優れた忍びは、己と同じ力を持つ忍びを見た瞬間に寒気のような感覚を覚える。
生まれ変わったかの如くに姿を変える程の化生の忍びを見て、半蔵の胸の内が冷たくならないのは、そういうことであった。
こうして忍びでないことを確信したが、そもそも忍びではなく、敵地に潜入する者もいた。
金を貰い、忍びの手引きをする者。金に買われるならば、乞食でも、農民でも、浪人でも、それになる。彼らは”人”と言える。

「しかし頭領」

助八が下に垂らしていた腕を胸の前で組み、早朝の家康のように身を乗り出して、娘の顔を覗き込んだ。

「此処は頭領の屋敷ですが……この女を連れてきて大丈夫だったんですか?」
「城に置くわけにはいかぬ」
「でも、もし」
「ただの女なら此処から離れた地へ、違えば始末するゆえ、心配ない」

助八がその言葉を聞いてまたもやに視線を移してしまったのは、やはり助八がまだ”忍び”に成りきれていないからだ。
半蔵は、青年の細い眉が切なげに顰められたのに気付いたが、二度と「未熟だ」とは言わなかった。
助八が痛いほどに己の未熟さを理解しているのを知っているのだ。
二人の視線を真っ直ぐに浴びていたの表情が微かに動いた。

「あ」

助八が半蔵を見やり、半蔵はそれに呼応して眼球を動かし、指示をした。
青年はそれを承け、足早に部屋から出た。障子を締め、半蔵とを背に回して座り込む。
まるでそれが合図だったかのように、の瞼がゆっくりと押し上げられた。
虚ろな瞳が天井を見つめ、やがて少し見開かれる。
黒の双眸が全てを現した後、娘は跳ねるように半身を起こした。半蔵の姿を捉えるや否や、顔を、さっ、と青白くして後ずさる。

「動くな」

半蔵が畳の上を音も無く歩んで、娘の眼前に立ち塞がった。
びくりと肩を跳ねさせた娘の瞳は涙の膜に覆われ、潤んでいる。目の前の半蔵を化け物かのように見つめ、唇をわなわなと震わせた。

「何処の者だ」
「……」

は答えない。
半蔵を見上げまま、今にも泣きだしそうな表情になっていく。目元が赤くなり、堪えるように唇を噛む。

「吐かねば、殺す」

がたり、と部屋の外から音が聴こえた。
忍びになりきれぬ青年の心を、情けが埋めつくした音だ。半蔵がの首を掴んだ瞬間、恐らく、室内へ飛び込んでくる。
は顔を伏せ、かぶりを振った。

「わ、分からないです」

喉の奥から声が絞り出された。
それは死にかけた鳥の鳴き声のようだ。陽の下に響く筈の声が、絶望と死の恐怖によってその輝きを失っている。

「何が分からぬ」

この男は誰に対しても、面を崩さず、そして感情を匂わせぬ声で話した。それ故、誰もが半蔵の心情を微塵たりとも察することは出来ない。
長い付き合いである家康も忠勝も、半蔵を信頼しているとはいえ、その内を感じとったことはなかった。
そのような男にが恐怖しているのは当然である。
この娘には、半蔵が”死”に見えた。
いつどうやって来るか分からぬ、命の終わりに。
はまたもや、分からない、とだけ答えた。
それからも殆どの問いに同じ言葉を返し、訊ねる度に首を振る。
まるで子供のようであった。
半蔵にはこの娘が、親を家を失い、己の居場所を失ってしまった子供のように見えた。

唯一、半蔵が得た情報はこの娘の名である。



「あの娘は己の名しか、知らぬのですか」
「応。それ以外は言わぬ」

赤い陽を背景に、長い廊下を二人の男が影を並べて歩いている。
何を訊いてもまともな返事をしないに時間の無駄を感じた半蔵が最後に訊ねたのが、娘の名であった。
娘は一瞬戸惑ったようだが、結局半蔵の冷たい視線に当てられて、

です」

と応えた。

「あの娘、どうします」

助八は不安げな面持ちだ。
”女”から”娘”に呼び名が変わったのが、助八の心情を表すのに十分な理由であろう。

「思い出すまで、待たれては如何ですか。本当に何も覚えていないのかも知れません」

待つというのは、忍びが相手に情報を吐かせる為の、拷問のことである。
助八のこれは、情けからの言葉であった。
半蔵がこの下忍に厳しい視線を向けた。
青年がたじろぐ。

「待ってどうする。それで何も言わなければ」
「……」
「お主があれの指を潰すのか」

助八は目を一瞬見開き、唇の両端に力を入れて強く結ぶ。
その場面が実際に目の前で起こったように、助八の瞳が動揺に揺れた。

「すみません」

空は血のように赤かった。
心を捨てきれぬ忍びは、こうした景色に感情を揺さぶられ、呑まれる。
上に広がる空が、冷たい夜のものであったならば、この青年もこうは言わなかったかもしれない。
半蔵の言葉からは全て、家康への忠誠がひしひしと感じられた。
得体の知れぬ女に情けを掛け、それが主の命を狙う者だったらどうするのだ、と。
この男にすれば、家康の命との命をわざわざ秤に掛けることもない。
初めから半蔵の中では決まっているのだ。この男にとって、己が仕える主が全てだ。
あの部屋では、白い障子の紙が橙色に染まり、窓から差し込む色が部屋の隅で膝を抱えて座るの肌を明るく染めていた。
温かな色だというのに今日の色はとても哀しげに、残酷に見える。
は黒い染みが付き、土で汚れた着物の膝を掴んで、何も無い空の一点を見つめていた。
身動きを取らず、まるで人形のようだ。魂が抜けてしまったかとも思える。
すると、双眸がじわりと涙を携えた。
嵩を増し、溢れ落ちそうになればその涙を袖で拭う。
現れたその瞳は、ある決心をしたかのように見えた。


13.4.24





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