NOVEL  >>  Long Story  >>  story 01
ざんざん
ドリーム小説 月は中天に昇った。
夜の闇は冷たく湿り、雲が漂って空を埋めようとしている。
鈴虫の小さな鳴き声がする中、ある一室の障子が、ゆっくり、ゆっくりと引かれて、拳一つ分の隙間が空いた。その黒い間から、二つの瞳が外の景色を覗いている。

(……)

次第に隙間が広がっていき、廊下へ、小さな顔が出された。

(誰もいない……)

は首を左右に振り、辺りを見渡した。

(逃げよう)

半蔵と助八がの処遇を話している頃、そう決心していたなのである。この服部半蔵の屋敷から、逃げ出そうと言うのだ。
娘の決意は確かであった。半蔵から”死”を直感で感じとり、四肢に絶対的命令を出した。
恐怖に脚がすくみ、腰が抜け、身動きが取れなくなることがあるが、今、を動かしているものは死に対する”恐怖”そのものである。臆病者は時に、恐怖に背を押されるのであった。
は音が鳴らぬように床を踏み、滑るように廊下へ出た。そして、再び入念に辺りを窺った。

(よし……)

息を殺し、静かに庭へ降りた。
柔らかな足裏に小さな石が食い込んで、は少しの痛みを感じたが、それも気にしてはいられなかった。異常な程の緊張感がを襲っている。

(大丈夫、大丈夫。誰も気付かない……)

目の先にあった、青い蔓が這った塀に手を伸ばしながら、娘は地面を蹴り、塀の縁に飛び付こうとした。
数回跳ねる。先程はもう少しで指先が掛かりそうであった。

(もう少し……)

次にもっと高く跳び上がろうと、膝を曲げる。
その反動を柔らかく使って跳ねようとするが、の躯はいきなり、後方へ投げ出された。

「……わっ」

は尻餅を付く。
地面の冷たさを感じた時、背筋に、じっとりとした嫌な汗をかいていくのをは自覚した。
眼前の闇を見つめれば、そこに、昼間を訊問した男が立っていた。
半蔵は全身を深い紺色の布に包んでいる。目を凝らさねば、その姿は夜闇に溶けこんでいてよく見えない。

「……」

目を見開き、声が出ずにいる
地面に突かれた両手が痙攣をするように細かく揺れていた。

「何処へ行く」

娘の躯が、びくり、と跳ねた。
そして半蔵へ、恨みと恐怖が入り混じった瞳を向ける。

「また、分からぬと申すか」

男が近付く。
重い声色がの鼓膜から脳髄へ伝わり、神経を巡って、躯の動きを封じていた。かつての四肢を動かしていた”死に対する恐怖”は、既に反対の役目を為していたのだ。
娘が怯え、完全に血の気が引けているのを、半蔵は感じとった。
右手に持つ鎖鎌を月の明かりに反射させると、刃がぎらりと輝き、まるで舌舐めずりをしているようである。は妖しげな光を帯びる鎌に、弱々しく……だが、悲鳴のように声を上げた。

「か、帰りたいんです」
「何処へ」
「分かりません……」
「帰る場所も分からぬのに、”帰りたい”と」

半蔵は鎌を振り上げた。
白い首を狙い、刃を一直線に、降り下ろす。
殺してしまえば――男の瞳にそれが写っていた。
わざわざ拷問するのも、全てを思いだすことを待つのも無しにして、この娘を殺してしまえば、それで終わる。何事も無い。
民一人死んでも世は変わらない。しかし、これが敵する者なら、主の平穏は保たれる、と。



降り下ろされた刃は、動きを止めていた。
首を跳ね飛ばす筈だった鎌がの頸動脈の、寸の所で止められている。
躯を大きく震わせ、背けていた娘の顔に掛かる黒髪の隙間から、滑らかな頬が見える。
固く瞑られた瞳から涙が流れ、白い肌を伝っていた。
半蔵は心の内で舌打ちをした。
鎌を振り上げた瞬間、の瞳を恐怖が染め上げて、その中に己の姿が写っているのを見た。小さな躯を抱き締めるように縮め、これから起こることから目を背けるように、瞼を閉じたのを見た。閉じられた瞼の端から、涙の粒が溢れ出たのを見た。
服部半蔵はそれに、不覚にも刃を止めてしまったのだ。
男がの首筋から鎌を離した。

「戻せ」

半蔵が言う。

「はい」

娘の背後から、違う声が聴こえた。
が斜め後ろを見上げて、その姿を視界に写す。
庭での物音を聴いて闇の幕から現れた助八は、少しの哀を含んだ表情をしていた。の腕を取り、力無い躯を無理矢理に立ち上がらせる。

「俺が戻るまで見張れ」
「はい」

しっかりしろ、というような視線を、助八は半蔵から受けた。

「はい」

もう一度頷き、助八は娘の腕を引いて部屋へ向かった。
半蔵はその二つの背を見送ると、落ちている葉を空中に巻き上げて、姿を消した。
男の姿があった場所に、ひらひらとまたそれが落ちる。

「二度と、逃げようとは考えるな」

言葉だけでは厳しく聴こえるだろう。しかしその声色は、相手を慰めるような優しいものであった。
これだから、 この青年は未熟と言われるのである。
を室内に仕舞うと、助八は障子を塞ぐように座り込んだ。そして中から聴こえてくるすすり泣く音に、静かに息を吐いた。




空気の湿りが強くなり、暗雲立ち込める空から、ぽつりぽつりと雨が落ちてきた。
半蔵が夜風になって浜松城を目指していると、それは次第に勢いを増して、横殴りのものとなる。闇に無数の銀色の斜線が走り、それを破るように半蔵が駆けた。
先程の一瞬の躊躇いを、この雨は流しきるようである。



「……半蔵、来たか」

家康は寝床に横たえていた躯を起こし、枕元の灯を闇に向けた。縁側には躯から冷たい雨を滴らせる半蔵が片膝を立てて座り、家康を見据えていた。

「冷えたであろう。火に当たるか」
「否……」
「そうか」

家康は布団から出て、半蔵の目の前へ腰を下ろした。

「半蔵。信雄殿から書状が届いた」

信雄――織田信長の次男である。
今の時の二年前、天正七年に信雄は信長に無断で、ある国に攻め行った。
これは、四方を山に囲まれた小さな国である。
織田、上杉、武田……と数々の大名が戦を繰り返し領地を広げる中、この国の中でも、多くの豪族達が争い、権力を拡大しようとしていた。言えば、日ノ本全体の争いからは孤立していたようなものである。
父・信長がこれへの侵略を考えているのを知っていた信雄は、

「あの国へ、迂闊に手を出してはならぬ、ぞ」

という言葉を聞いておきながらも、

(父に認められたい)

この思いで小国を攻めてしまった。
何故、信長が慎重にことを運ぼうとしていたか……。
それは、この小国が”伊賀の国”であったからだ。
伊賀は忍びの国である。
半蔵の故郷とも言えるのである。
室町幕府十二代目将軍、そして松平清康(彼の孫が、のちの徳川家康である)に仕えてきた初代服部家当主である半蔵の父・保長は、元は伊賀出身であり、服部家は伊賀の三大豪族の一つであった。
半蔵が三河の地にて生まれると、半蔵は直ぐに伊賀へ送られ、長い年月をこの地で過ごし、忍びの業を身に付けた。
伊賀は忍びを生む国であった。
信雄はこれを軽く見ていた。そして忍び集団の奇襲作戦に大敗し、無様にも伊勢へと逃げ帰った。この戦いで大事な家臣をも失った。

「二年前の伊賀攻めの大敗を、信雄殿は信長様からきつく叱責された。信雄殿はそれゆえ、伊賀を恨んでおる」

家康は唸り、畳の目を睨む。

「信雄殿は再度伊賀を攻めることを決め、我ら徳川もそれに加わることとなった」

小さな双眸を伏せ、それが納得のいかぬように背を曲げた。

「すまぬ、半蔵」
「……否。殿の命ならば、国をも殺す所存」

家康はかぶりを振り、寝着の懐から白いものを出した。

「これを」

膨れた指に掴まれたものを受け取ると、それは一枚の文であった。
半蔵が折り目を開き、紙の文字に目を這わせる。
直ぐ様全てを読み、家康へ顔を向けた。

「殿」
「お主の故郷を救うことは叶わぬが、伊賀の者達は救うことが出来よう」

――密かにこれを、百地殿へ。

静かに呟いた家康に、半蔵は深く頭を下げた。

「恐縮。このご恩は戦働きにて……」
「いや……礼を言われる立場ではないのだ」

伊賀は半蔵や半蔵を繋がって仕える伊賀忍達の故郷だ。
家臣の故郷を攻めることなどは、この時代特に珍しいことではないが、信雄の逆恨みに手を貸し、安寧の地を、家臣の故郷を攻めるということは家康の心が酷く痛んだ。
家康から半蔵へ渡ったこの書状には、伊賀攻めでの配陣が記されていた。そして、

”織田、徳川とは戦わずに伊賀から脱してほしい。徳川が密かに手引きをする。”

という内容の文が書き綴られていた。
織田の盟友である立場上、表立って行動は出来ないがどうにか伊賀の者達を救おう、というのだ。
幸い、信長は伊賀攻めには出てこない。織田軍を率いるのは人としても若すぎる信雄である。
気付かれずに脱出を手引きするのは難しいことではあるが、決して出来ないことではなかった。
此処には服部半蔵がいる。
半蔵は受け取った文を懐へ深く仕舞った。

「強く、降り続いておるな」

家康から呟かれたそれは、外の雨を指すものである。

「応」
「雨は止まぬゆえ、今宵は城で休むとよい」

半蔵は一瞬考えた。しかし、更に勢いを増した水の音を聴いて、今夜は城で床を取ることに決めた。
この時の半蔵の頭には、既にの存在は無かった。

下女が世話をしようとするのを、半蔵は目だけで制す。
廊下が濡れぬように外を歩き、風呂場の前に来れば、石の段に腰を下ろして頭巾を剥ぎ、脛を包んでいた鉄を取り、足袋を脱ぐ。
寒さに色を失った唇、白くなった太い脛が冷たい外気に晒された。
それからやっと廊下に上がり、湯を浴びた。
手際よく躯を洗って湯で温め、足早に風呂を後にする。
それからは半蔵は忍びの姿から一人の男の装いとなった。
そして布団の敷かれた部屋に入ると、ちろちろと燃える寝灯に、懐の文を差し込んだ。
湿り気を帯びた紙は燃えにくい故、少しの油を掛ける。そうすれば、家康が、現在伊賀を仕切る人物、百地三太夫に当てた文は瞬く間に黒い炭となった。
内容は全て半蔵の記憶となっていた。
これは織田と徳川の軍が伊賀攻めに向かう時、一足先に伊賀へ入った半蔵の口をもって三太夫に届けられる。
大きくなった灯りに、半蔵は息を吹き掛けて、それを消した。
明昼は人が生き、忍びが死ぬ場所であるように、夜闇は人が死に、忍びが生きる場所であった。
この男は、灯りに姿を照らされるのを避ける。闇が、この男の生きる場所であるからだ。
外は豪雨となっている。
激しい雨が遠江の地を打ち鳴らしていた。


13.5.1






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