NOVEL  >>  Long Story  >>  story 01
疾走
ドリーム小説 半蔵が目を覚ましたのは、青い空が少しの雲を漂わせる、昼下りであった。
本人の意識とは関係なく、夜雨に打たれた躯は酷く疲労していたらしい。空が薄暗い時には城を出ようと思っていたのに、今まで眠りこけてしまった。
まだ暗い時であるなら心配は無いが、この陽の下では、忍びが身を隠す為の装束は却って姿を目立たせてしまう。
それ故、半蔵は黒塗りの笠を被り、腰に刀を差した武士の格好となり、家康から借りた馬で屋敷へと戻った。
地は、晩の豪雨の所為でぬかるんでいる。馬蹄が地を蹴りあげる度に馬の脚や腹に幾つもの水玉が出来た。

馬駆けでは直ぐ、半蔵の屋敷へと着く。
男は珍しく屋敷の正面から入ると、庭の奥で馬を降り、握っていた手綱を近くの木に縛った。
縛り終え、暑さに蒸れる笠を取ろうと顎紐に指を付けた時、下忍の助八が息を切らしながら半蔵の下へ走ってきた。

「と、頭領」
「どうした」

青年の顔は白を通り越して青い。

「本当に、すみません……!あの娘が……!」

言って、泣きそうな顔をする。
半蔵は”娘”という言葉で、すっかり忘れていたのことを思い出した。
助八は外から見て取れる程、慌てている。
その様子は、半蔵が城にいる間に何が起こったのかを安易に想像させた。



「あの」

今日の、朝陽が昇り始めた頃である。
のいる部屋の前で、あれから一睡もせずに見張りをしていた助八に、中の娘が障子越しに声を掛けた。

「なんだ?」
「お腹が……痛くて……」

はそう言った。
助八は障子を開け、気まずそうに己を見上げた娘を屋敷の端にある厠へと連れて行った。
厠から少し離れた壁に背を預け、娘が出てくるのを待つ。

「まだか?」

が厠に入って直ぐ、助八がそう訊ねた。
男が厠で使う時間など一瞬のものである。それ故時間の掛かる女を理解出来ず、訊いてみる。

「はい」

声が返ってきた。
それからまた、今度は先よりも少し経ってから、

「まだか?」
「はい」

次も声が返ってきた。
そしてもう一度、先よりもだいぶ経ってから、

「まだか?」
「はい。まだ、お腹が……」

少し違う声が返ってきた。

(女子は何かと時間が長い……)

青年は腕を組み、退屈な待ち時間に項垂れた。
この繰り返された問答の末に、青年は、はっと思う。

(こうも、用が済んだか否かを繰り返し訊ねては、相手は若い娘だろうし気恥しいのでは……)

これである。
助八は忍びだというのに、他人に優しすぎるのである。これが全てに繋がるということも、優しき彼は想像をしなかった。否、出来なかった。
そしてこの後、ゆっくりと百を五つ数え、終わった時に、また訊ねる。

「まだか?」

庭の鳩が鳴いた。
……間髪無しに返ってきていた声が、聞こえない。

「おい」

青年は腰を上げ、戸を叩く。
反応が無い。
更に強く戸を叩きながら、

「返事をしろ、開けるぞ」

と、言う。
そう言っても、中からは何の音も聴こえてこなかった。
青年の首の後ろから背筋を通って、冷たいものが舐めるように滑り落ちる。

(これはいかんぞ)

ここで漸く、嫌な予感がした。
助八は宣言通りに力ずくで戸を抉じ開け、中を覗く。

「……うそ」

そこには誰もいなかった。
正面にある窓枠が外れ、白い朝陽が床を這っていた。



「それから直ぐに、今まで探したんですが、何処にも……」
「助八」
「はい」
「お主が未熟ゆえ、こうなった」
「はい……」
「何故学ばぬ」
「……すみません、本当に……」

青年の面は、忍びとはいえない程に情けないものだった。
まさか昨晩に脱走を謀り半蔵から刃を向けられたが、またその朝に逃走をするなど思いもしなかった……という顔だ。

「此処にいろ」

半蔵は先程縛り付けた馬の手綱を解き、鐙に足を入れて、軽やかに馬上へと舞い戻った。
そして助八の返事を待つことなく、馬腹を強く蹴り、馬の嘶きと共に屋敷から飛び出した。
助八は遠くなっていく上司の背中に向け、何時までも頭を垂れていた。
その時。無事に半蔵の屋敷から逃げ出ることに成功したは街道を外れた林の中を夢中になって走り続けていた。
全力で駆け、脚が動かなくなると立ち止まり、息を整えた。痙攣する腿と脹脛の筋肉を揉みほぐし、また走り出す。
それを何度か繰り返す内に周りを囲む緑の空間は終わりを見せて、を小川の縁へと辿り着かせた。

「はぁ、はぁ……」

虚脱し、地べたに座り込む。
口内が水分を失い、舌がへばりついた。
あの森で姿を現してから、今まで何も口にしていないである。
その状態で何時間も走り続けていたのは、余程この娘の意思――半蔵に対する恐怖が強かったと思える。
は膝で這って川に近付くと、両手を水面を割って差し込んで、水を掬い、口の中に流し入れた。
口端から水が漏れ、顎を伝って喉を濡らす。そして白い喉がゆっくりと上下した。
躯の内を冷感が巡る。
もう一度水を飲み、今度は玉の汗が浮かぶ両腕をそこに浸した。火照った肌が冷やされ、緊迫していたの表情はゆるゆると柔らかくなっていく。

「変な格好」

が顔を上げた。

「なんでそんな格好してるの」

細い川を挟んだ陽溜まりの下に、少年がいた。
彼は小さな面を泥で汚し、ぼさぼさの髪を上方で縛り上げていた。着物の裾をたくしあげ、日焼けした脚を川の中に浸している。
真剣な眼差しは、どうやら、の身形を不思議に思ったらしい。

「……わ、分からない」

は両眼を瞬きさせ、少年へ応えた。

「ふぅん」

少年は無表情での上から下を観察し、

「変なの」

呟いて、走り去ってしまった。
川辺に残されたはその少年の背を見えなくなるまで目で追い、それから小さく呻いて、考え込むように頭を抱え顔を伏せてしまった。
昼の陽射しが肌を照り付ける。



「ねぇ」

かなりの時が経った頃、またあの声がした。
目を開くと、先程の少年が片腕で腹を抱えて、を見ている。

「なに?」

返事を訊いた少年は太股までを濡らして川を渡ってきた。ざぶり、ざぶり、と水の流れを横切って、歩いてくる。
遂にの隣に出ると、そこへ座って、大事そうに抱えていた己の腹をまさぐった。

「あげるよ」

懐から出てきたのは一足の草鞋であった。

「え……?」
「裸足だろ。皮が剥けて痛そうだ」

そこで初めて、は己の足元を見た。足は土に汚れ、枝や石を踏んだ裏は傷付いていた。皮がささくれのように捲れて血が滲んでいる。

「いいの?」
「いいよ。爺が、暇だからって作ってるんだ」

少年は草の上に投げ出されたの両足を川に入れ、足を洗った。
そして慣れた手付きで草鞋を履かせ、踝の上で紐を縛る。

「ありがとう」
「うん」

少年はぶっきらぼうに応え、また懐をまさぐる。

(まだ何か入ってるの?)

茶色く焦げた少年の腕が動く。
草鞋の次は、笹の葉に包まれたものが出てきた。少しの重みがあるようだ。中に何があるのかは分からない。

少年が葉を一枚捲る。
がそこを覗きこむと、二つの握り飯が姿を見せていた。
小さな手がその一つを取り、に向けて差し出す。

「ん」
「え?」
「ん!」

が恐る恐る両手を出す。すると、そこに少年が持っていたものが置かれた。

「あげる」
「ほ、本当に?」
「俺、畑の野菜食べたから。一つでいい」

少年は残ったもう一つを頬張った。小さな白い歯が粟を噛み締める。
もそれに倣って、握り飯を口に入れた。久しぶりに口にした食物に顔が綻ぶ。

「ありがとう、優しいね」
「うん」

少年は片手に握り飯を持ったまま、反対の指先で川の水を遊び、顔を埋めてそれを飲んだ。上げられた顔と長い睫毛が水に濡れ、陽に輝いている。

「名前なんていうの?」
「喜助」
「喜助くんかぁ。私はね」
「知ってるよ」

少年が食いかけの握り飯を全て口の中に仕舞って、口を忙しなく動かしながら立ち上がった。やがて、ごくりと飲み込んで、

「氏神様だろ」

と、言ってのけた。
まるで核心を突いたような物言いだが……それは正解ではない。は驚いた。

「……う、氏神様?」
「うん、そう。だからそんな格好してるんだ。俺分かったよ」

は口を開け、

「神様……」

呆然と呟く。
後を引いた声は少年に弁明しようとしたが、次の言葉に、諦めることとなる。

「俺の爺、暇してるって言ったろ」
「うん」
「病気でずっと寝てるんだ」

少年の顔が曇った。
は漸く、どうしてこの喜助という少年が自分に親切をしてくれたのかが分かった。

「元気にしてあげてくれよ」

頼んだよ、と背を見せながら叫んで、喜助はの前からいなくなった。

陽はいつの間にか落ちていた。
遠くに見える山の後ろで、空の下から、赤い色が滲み出てきている。
半蔵の屋敷でも鳴いていた鈴虫が、その茜色の景色を奏でた。
次第に空気が冷たくなり、風が吹いてきた。は喜助から貰った握り飯を胃の中に仕舞い、躯を立ち上がらせた。
草鞋を履いた足で川を沿って歩き出す。
緑を分ける。
脚を運ぶ度、虫が次々と足元を跳び跳ねた。

(……?)

少し歩いて、は人の声が聴こえるのに気が付いた。
足元を見ていた目を前に向けると、三人の男がの進む先から此方に向かって歩いてきている。
は草の茂みから離れ、地が盛り上がった林の入り口へ避けた。
男達もの存在に気付いたらしい。
話し声をぴたりと止め、すれ違うの姿を食い入るように見入って、瞬きもしない。

(あ……)

娘は危機を感じとった。
三人の男はすれ違ってから五歩程歩くと、躯の向きを変えての後ろをついてきたからである。
まだ完全に夜になったわけではない。
辺りは未だ薄明るい。
しかし、人の気がまるで無かった。
が脚を速めても、男達はついてきた。
川の縁に生えていた草が無くなり、砂利の道となる。
娘は林の入り口を歩いていた筈だったが、それはどんどんと高くなって山の形になっていた。右を山の壁、左を川に挟まれ、逃げ場は前か、男達が歩く後ろしか無くなった。
そして、気付く。
背後から聴こえる砂利を踏む音が、つい先程よりも近い。十秒前よりも今の方が確かに近い。
前髪に隠れる小さな額に汗が滲んだ。
人差し指の脇で汗を撫でる。

勢いを増して流れる川の水面で、魚が跳ね、水飛沫が上がった。
静寂が広がるここでは、その音は鮮明に、まるで警報のように鳴り響いた。

これを合図として、娘は一目散に走り出した。

「待て!!」

身を小さくして走る娘を、三人の男達が追い掛ける。
この一帯には、山賊が多くいた。
通る行商人を捕まえ、金目の物を奪い、女が通ったならば、多数の男達で凌辱の目にあわせた。
今、を追い掛ける男達もそれである。
男達は罵声を上げながらを追った。
決して逃がすまい、と息巻いている。
このような人気の無い所を歩く娘は、彼等の良い獲物だったのだ。
一人の男が下に転がる石を拾い、に投げ付けた。

「――あっ」

拳程の石が左の後ろ腿に当たり、は砂利の上に倒れ伏した。
素早く起き上がろうと両手を下に突く。だが、痛みが走る。
石の鋭角で手の平や膝、脛を切った。皮の裂目から赤い汁がぷっくりと浮かび出た。

「……!」

追い付いた男がに飛び付き、その躯に馬乗りとなった。

「や、やだ!退いて……!」
「早く手ぇ縛れ。そいつ連れてくぞ」
「おう」

男が己の帯を解いてそれでの両腕を縛ろうとする。
はそれを必死になって抵抗した。

「てめぇ、手間かけるなよ」

躯に覆い被さった男が、握った拳を空に上げを見下ろした。

(殴られる)

目を閉じた。



――すると、横の山中から怪鳥のように飛び出たものがある。
それはの上にいた男の腹を蹴り上げ、襟首を掴み、残り二人の方へ軽々と投げ飛ばした。

「うわぁ!」

男達は悲鳴を上げて後ろに倒れた。
そして重なる躯のままで、己らを転がした相手方を見る。
すると……既に、男達から遠く離れた小岩の上に、その影はある。
影は娘をくるむように抱え、山賊達の躯を射抜くかの如く、鋭く光る視線を向けていた。
三人は、言葉が出ない。
口を開けたまま、男女の影を眺めた。
やがて、影は闇に溶け込むように、消え失せてしまった。
躯をがんじがらめにしていた影への恐れが解かれ、男達は漸く四肢を動かすことが出来る。

「ひ、ひぃ……」

橙の空に叫びながら、川を下っていった。



を救ったのは言うまでもなく、を探し、馬で駆けていた半蔵であった。
半蔵は川の辺りから少し移動した所でを木の根に腰掛けさせ、血の溢れる両手と膝、脛に、汲んできた川水を浴びせた。
じんじんと熱を持った傷口をそれが冷まし、痛みを微かに和らげる。

は目の周りを赤くさせ、半蔵の気を伺うように、視線を向けたり、逸らしたりを繰り返していた。

「あ、あの……」

遂に娘が声を出すと半蔵が顔を上げ、双方の視線が交わった。薄い二重の瞳が、を近くで見つめる形となる。

「私……。ごめんなさい……」

語尾は小さくなり、声が消えて、代わりに娘の双眸から熱いものが溢れ落ちてきた。
半蔵は伏せられたの顔を暫く見ていたが、着物の前を開き、腹に巻いていた晒しを解くと、それを歯で千切って、娘の傷の上に巻き付け始めた。
娘の震える白い手を取って、親指の間に布を入れ、小指の下を通って傷を覆っていく。
細かく指が震えているのは、痛みからではないと、から落ちる涙がそれを物語っていた。
半蔵は全ての傷を覆った。
羽織っていた藍染めの羽織を脱ぎ、娘の肩に掛ける。

涙で濡れた顔が、半蔵を見上げた。

「来い」

男は言った。
は手の甲で涙を拭って、こくりと頷いた。立ち上がり、半蔵の前に立つ。

あたりの山も野も、林も道も、暗澹たる陰りに包まれた。風に転がされた枯葉が二人の足元で身を寄せるように固まっていた。
半蔵が親指と人差し指で輪を作り、唇で挟む。息を細く吐くと、口元から甲高い音が出て、何処からか馬蹄の響きが近付いてきた。
直ぐに姿を現した栗毛の馬は、主人の元に擦り寄り、低く鼻を鳴らした。
驚いて一歩後ずさったを、半蔵が馬の鼻筋を二、三度擦ってから、腕を取って引き戻した。娘の細い腰を両手で収めて、その躯を馬の上に乗せる。
は困惑の表情である。

「私、馬に乗ったことがないんです」
「……案ずるな。俺が引く」

垂れた手綱を男が握った。
二本の大小の影は、ゆっくりと、屋敷までの道を戻った。
馬を駆けさせなかったのは、の傷が振動で痛むのを避けることと、未だ落ち着かぬ心を察して少しでも穏やかにさせてやろうとの半蔵なりの気遣いと見えた。
屋敷に着くと、助八は馬に勢いよく飛び付いてきた。
馬上のを確認して、

「良かった……」

へなへなと力が抜けたように座り込んだ。
半蔵は乗せた時と同じようにの柔らかい腰を掴んで地に降ろして、寝ずに主人の帰りを待っていた侍女に、

「こいつの世話を」

と、言い付けた。
侍女に腕を引かれて奥へ連れていかれそうになったは、振り向き、座り込んでいる青年に頭を下げた。

「ごめんなさい」

助八は驚いたように娘を見、やがて、彼の人の良さが窺える、優しい笑みを浮かばせた。
そしては今度、半蔵に向き直った。

「ありがとうございました……」



――こうしての逃避行は失敗をしたわけだが、本人は再び挑もうとはしなかった。
屋敷の外の景色を見て、全てを悟ったようである。
緑に囲まれた地、流れる川、優しき少年……そして、半蔵と助八。
それらはにとって大きすぎる事実を突き付けた。

半蔵はこの翌日、伊賀へと向かった。
里帰りは惜しくも、”伊賀攻め”という形でなる。


13.5.4







<< END >>
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