風が冷たく乾燥し、山は何処も燃えているようになり、金色に輝く野の上を山と同じく赤い色の蜻蛉が飛び交った。
商人の屋敷に化け、ひっそりと存在する服部半蔵屋敷の庭にも、秋は訪れていた。
くたびれた門の足元で空色の露草が質素な入り口を飾っており、塀の側では山茶花が、白や赤、薄桃色の花を咲かせている。
屋敷の住人は風に揺られ崩れるように落ちたその花弁を拾って皿の上の水に浮かべては、窓の縁に置き、水面を滑る姿を眺めていた。
織田、徳川は伊賀攻めを終え、帰路に就いていた。
皆の顔は暗い。
馬上の信雄は一言も喋らず、唇を噛み締め、少しでも攻撃をしたら、女のように泣き出してしまいそうであった。
この信雄の原因は、伊賀の国の長、百地三太夫を殺すことが叶わなかったことにある。
そして家康も、太い眉を悲痛に下げて、厚い瞼を伏せている。”残念だ”という気持ちが満面に現れていた。
本人以外の者からは、まるで信雄の意を汲み取って己の不甲斐なさに落胆してるかのように見えたが……。
(まさか、信長様が来られるとは……)
家康は馬の首に向けていた顔を行列の先頭を行く、一人の男に向けた。
そこにいるのは、伊賀攻めには出陣しない筈だった、織田信長である。
信雄と家康の兵達が伊賀に雪崩れ込んでから一週間経たない頃、信長は突如姿を現したのだ。
実の子の信雄も、父が伊賀に来ることを聞いていなく、戦闘中、突然背後に現れた信長の旗印に動揺し、
「な、何故……」
と喘いでから、
「父上が此処に来る前に……!早く、三太夫を探せ!」
と必死の形相で叫んだ程である。
信長は過去にあった信雄の伊賀討伐の失敗から、今度の戦も信用していなかったらしい。
それで信雄の戦いぶりを窺うべく、信雄にも家康にも報せず黙って現れた……というわけである。
信長の予想通りに、百地三太夫の姿は見当たらないので、戦の指揮は完全に信長に移った。
「伊賀者一人残らず、滅せ」
この命令で、女子供も関係なく殺され、家に野に火を放たれた。
自然に富み、小国ながらも繁栄をしていた伊賀の国は無惨にも焼け野原となり、かつての面影を微塵とも残さぬ、伊賀者達の墓場となってしまった。
伊賀の者達を全て救う気でいた家康は、このような現実で、百地三太夫とその周辺の者二十人あまりを逃がすことしか出来なかったのである。
家康の顔の暗さはこれにあった。
戦後、信雄は三太夫を取り逃がしたことで、またもや父信長から叱咤を喰らってしまった。
普段の彼なら三太夫を取り逃がしたことを怒り狂って喚き散らしただろうが、信長からのきつい言葉は、彼がそうする気力を全て消し去ってしまった。
「家康」
まるで信長の背から呼ばれて、家康は馬の腹を軽く蹴り、脚を近付けた。
「なんでござりましょう……」
「うぬの配下には伊賀者がおる……な」
ひやり、と家康の胸を何かが撫でる。信長は黒い眼を家康に向け、愉快そうに眉を寄せ上げた。
「これ程の忍びは、良い働きをするであろう」
”これ程”とは、織田軍を翻弄しつつ、伊賀から逃げ出した忍び達の能力の高さを言っている。
「は……」
家康は顔を伏せた。これは信長に家臣を誉められたことへの感謝の意を示すのと、――異常に汗をかきはじめた己の顔を見られぬようにする為であった。
「残った伊賀者を、大事にするがよい」
男は低く笑った。
(恐らくは……いや……)
――気付かれている。
信長の笑みが、家康の胸へ恐怖にも似た、確信の思いを生ませた。
この一行が各々の居住地に着いたのは、あと少しもすれば朝陽が見え始めるという頃であった。
半蔵は屋敷の塀を飛越え静かに着地すると、鮮やかに咲く花には目もくれず、縁側を目指して歩み、腰を降ろした。
躯が痛んだ。
半蔵が改めて己の腕や脚を見ると、装束は細かく裂け、鎖帷子は刀傷を負っている。勿論半蔵自身も傷付き、それ程深いものではないが、無数の傷跡が全身にあった。
籠手を外し、布を捲って肌を露にする。
右腕は手首から肘にかけて一直線に切れ、人差し指と中指の股が裂けている。左腕には軽い火傷がある。
半蔵はこの傷を眺めて、伊賀での戦いを脳裏に浮かべた。
半蔵から、死臭が漂っていた。
放っているのは半蔵の躯ではなく、半蔵の躯を濡らしている他人の血であった。
身に纏う忍び装束、鬼の面頬、鎖鎌には大量の血あぶらがこべりつき、腐った肉と鉄の臭いを漂わせているのだ。
これをずっと嗅いでいた半蔵の鼻には、それが染み付いてしまったようだ。己がどれだけの臭いを纏っているのかも分からなくなっていた。
忍びは、匂いを持ってはいけない。
戦場ではこの匂いが満ちている故、半蔵の姿が浮き出ることは無かったが、ここは血の臭いが目立ちすぎる。
半蔵は一刻も早く、己の躯からこの死臭を洗い流したかった。
「助八さん?」
背後にある部屋から、女の声がした。
半蔵が伊賀攻めに向かった日から、二ヶ月の時が経っていた。
二ヶ月前……半蔵は森の中で捕縛した娘を、今現在半蔵の背後にある部屋の中へ、仕舞い込んだのである。
この声は、その娘――のものであった。
は配下の助八と、見張りと見張るべき疑わしい娘という関係から”友”の関係になったのだと、半蔵は思った。
が助八の名を呼ぶ声には、心を許した相手への信頼が含まれているのが感じられたからだ。
障子が引かれる。
最初に白い指先が隙間から覗き、半蔵はそれに見入った。
「あ……」
顔を出したは小さな声を上げた。
「け、怪我が」
娘が男の顔を見たのはたった数秒である。
喘ぐように呟いて直ぐ様、部屋の中へ引っ込んでしまった。
(怯えたか)
このような姿に怯えるのは可笑しくはない。増して、かつて俺はあれに刃を向けた――半蔵はそのようなことを思っている。
半蔵は捩っていた躯を戻し、籠手を外して軽くなった腕で面頬、具足も外し始めた。
金具の部分で固まった血を指先でなぞり……視界の端に白いものが入り込んだ。
「あ、あの……」
奥に引っ込んだと思えた娘が手拭いを持ち、再び現れたのだ。
白い寝着に身を包み、背景に闇を置いて座る姿は、夜闇に浮かぶ花のようである。
からふわりと香った甘い匂いに一瞬、他人からは分からない程で眉を顰めた。
「……要らぬ」
「で、でも……血が……」
指が震えている。
娘は血が恐ろしい。それなのに半蔵の近くに来たのには理由がある。
半蔵とが別れる日の前日、が屋敷を脱け出し、盗賊に襲われたところを半蔵が救った。その際に負った傷も、半蔵が手当てをした。
あれから二月が経っていたが、はその恩を忘れたことはなかった。
しかし、半蔵にとっては気にするものではなかった。
正体を暴く前に手放す訳にはいかない、としただけのことであったからだ。
だからが半蔵に手拭いを差し出す意味も分かってはいない。
寧ろ半蔵は、いつまでも引っ込められぬ娘の手に疲れを感じた。少しの苛立ちも感じた。
一度、眼を伏せる。その時の表情には不安が表れていた。
また眼を開けた時にそれに気付いて、面倒を感じながらも娘の手に握られた手拭いを受け取った。
血が滲む傷口をそれで押さえ、
「構うな。戻れ」
突き放した。
「……す、助八さんを」
「呼ばずともよい」
「でも」
「よい」
外した具足を傍らに置いた。
娘は躯の前で両手を絡めた。
そして、俯く。親に叱られた子供のようだ。
「あの、水を……持ってきます」
は立ち上がり、暗い廊下の奥に消えた。
男の言葉を、聞く気はないようである。
そして、二月をこの屋敷で過ごす間に、どれが何処にあるのかを把握している。
幽閉すべく筈だった娘は、この屋敷の住人の一人となっていた。それをそうしたのは、紛れもない助八であった。
だが、それに加担したのも己である――と半蔵は思った。
この男が伊賀攻めに向かう前に、娘の口から全てを吐かせ決着をつけることは十分に可能だったからである。
それをしなかったのは半蔵がに対して”人”を感じたからだ。
素性は何も分からない。しかし、ただ生きているだけの、純粋な”人”ということを。
水の張った桶と、何枚かの手拭いを持ってが帰ってきた。それと片手に細長い布と塗り薬を持っている。
一枚の手拭いを水に浸して、濡れたそれで血に染まる半蔵の腕を拭った。
男は腕を引き戻そうとしなかった。
長い戦いで疲労を感じていたし、そして、この娘は己の言葉を聞かない、と判断したからであった。
「痛みますか……?」
白の手拭いが色付く。
半蔵はそれを見ながら、
「否……」
それだけ応えた。
――可笑しな話である。
この男の肌を染める血は、大体が他人のものなのだ。
は血の量に驚き半蔵の怪我が只事ではないと思っているが、男の傷は殆どが浅いもので、中でも深いのは右手のこれだけ。
確かに躯の奥の筋は痛んでいる。だが娘が思っている有りもしない傷口が痛む筈がない。
ぐす、と鼻をすする音がした。
なんと、娘は双眸から涙を落としているのだ。
「……」
これには半蔵も驚いた。それを顔にさえは出さなかったが、この娘が泣く理由が全くと言っていい程、分からなかった。
「何故、泣く」
気付けば、その思いは声となっていた。は着物の袖でそれを拭って、首を振る。
「俺が恐ろしいか」
娘は顔を上げ、
「いえ、違います……」
続けて、
「だって、とても痛そうで……」
そう言った。
の涙は半蔵を思ってのものであると言うのだ。
半蔵はこの涙に、己が避けるべきものを感じた。
この男は忍びである。
の涙は、半蔵が己自身で己自身から切り捨てたものであった。
腕は漸く、通常の肌を晒した。
が慣れぬ手付きで薬を塗り、布を巻き始めた。お世辞にも上手いと言えぬ包帯の巻きは、娘自身も気付いており、申し訳なさそうに躯は小さくなっていった。
薬が付着して巻き直すわけにもいかないそれをどうにか仕上げ、最後に布の端と端を縛ろうとするが、指が震え、強く引けない。
半蔵は苦戦するの指先から片方の端を取り、それを引いた。そして、結ばれる。
空に浮かんでいた腕を、男は床に落とした。も行き場の無くなった両腕を膝の上に戻す。
次に、が左腕の手当てもしようとした。もう一枚の手拭いを水に浸そうとしたところを、半蔵が手を翳し、制した。
比較されるように並んだ、男の手と娘の手。血を纏うものと、血を恐れるもの。
触れてはいけない両者のものだ。
「……顔を拭け」
は瞳を開き、やがて、小さく頷いた。それに顔を埋める。
男は確信していた。
言えば、二月前に既に分かっていた。
服部半蔵は影の者である。
は影の者と反対する、光の者であることを。闇の中ではなく、陽の下で生きる存在だということを。
「お主を帰そう」
己と相対する者であるのを確信した時、半蔵の屋敷にを閉じ込める理由は無くなっていた。
「何処にでも行け」
ここで漸く、東から、空が白んできた。半蔵の背後から朝陽が滲み、娘の頬が照らされる。
「行く場所があるならば、助八に送らせる」
の双眸は依然として少しの涙を浮かばせ、朝の白い光を受け止め、輝きを放っている。
「私……」
かつて、絶望と死の恐怖で輝きを失っていた声が、深い闇の中で一筋の光を見つけたように、それに縋るように、それを願うように、必死に、陽の下で鳴こうとしていた。
半蔵は応えを待った。
何も言わず、いつもこの男がそうするように相手の眼を見つめ、奥に隠れる”心”を読んだ。
忍びが身に付ける術であった。
双方が会話をする時に当たり前に相手を見るそれではなく、半蔵は忍びの術としてそれをしていた。
”まことのこと”を話す眼だ。
瞳の奥には娘の”まこと”があった。
ならば、半蔵はから出る言葉を信じる。
二人の間に、静寂が流れる。
その奥でまた一つ、山茶花の花がほぐれるように崩れ落ちた。明るくなりつつある夜の景色で薄桃色の花弁が地面に散らばり、それは無な空間を鮮やかに彩るかのようである。
13.5.6
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