頭上に広がる茜空から、火の粉が吹き落ちるように、ひらり、ひらり、と紅葉が舞う。
半蔵は回転しながら落ちてきた、一枚のそれを掴み、傍らの娘へ差し出した。節張った指から、柔らかな、穢れの無い指に渡る。
長い睫毛を持った双眸から真っ直ぐな視線を注がれる紅葉は、娘の手の内で燃えているように見えた。
これより二刻程、遡る。
陽が真上にある。裸の枝木は、眩しい陽射しに濡れ、冷たい風に包まれていた。
魂の脱け殻のように、庭一面に散らばる枯葉を、が竹箒によってかき集めている。
二つ目の茶色い山を作り終わった時、娘は、縁側の服部半蔵へ目をやった。
男は粗く砕いた豆を、鳩の前に落としていた。
降りたての雪のように白い鳩は、小さな眼で、主人を仰ぎ見ている。
もまた、竹箒を振る腕を止めて、半蔵の横顔に見惚れていた。
顔に熱を帯せながら見入っていることに気が付いて、払うように頭を振ると、次は着物の裾から覗く、鋼のように硬く、太い腕に視線が行く。
伊賀攻めにより負った左腕の刀傷は、見事に皮膚が付き、ほぼ全快状態であった。
娘は思い耽った。
織田による伊賀への侵攻で、伊賀の国は滅びた。多くの伊賀者が死んだ。
家康により助け出されのは、百地三太夫を含めて、二十二人。
だが、伊賀者の生き残り全てが、これではない。
元より、各地に散らばっている。それは雇い主の傍であったり、雇い主の命によって敵方の国に忍んでいたり、百地三太夫が世の情勢を知るべく、散らしていたり。
”伊賀者らしく”、織田が攻めてくる前に国を捨て、逃げた者も大勢いた。
徳川に仕える伊賀忍を、統率する役目にある半蔵であるが、伊賀の国の忍び達とは、頭領と配下の関係ではない。
服部家当主として位が高く、伊賀者は頭を下げるが、支配する権力はない。持つのは百地三太夫だ。
それ故、半蔵と各地に忍ぶ伊賀者とは雇い主と雇われの関係にあった。
半蔵が彼等に金子を渡し、情報を買う。情報は鳩の脚にくくりつけられ、半蔵の屋敷を目指して翔んでくる。
こう言った関係である伊賀者の中に、”木戸弥左衛門”という男がいる。
男は織田の地で、印判師となって潜んでいる。
その影で諜報の役目をし、また、毒を打ち消す薬や、傷を回復させる薬、 戦いの最中で使用される痺れ薬や、体内に取り込めば必ず死に至る毒薬等を作っている。
助八が向かった先も、弥左衛門の家である。
半蔵の屋敷にある薬は、大体がこの男の生産物であると言っていい。
半蔵の腕に見える、人の治癒能力を遥かに越えた薬の効果に、はあることを考えていた。
男の顔が、此方を向く。
どきり、として直ぐ様視線を逸らし、腕の動きを再開させようとするが、
「何か、思うことがあるのか」
この言葉に、それも止まった。
肌を視線で撫でるようにしていれば、浴びる本人が気付くのも当然であった。
己の眼差しに思いが宿っているのを半蔵が看破したことに、は動揺する。
「……はい」
箒の持ち手を、胸の前で弱々しく握り締め、頷いた。
凡そ二月前、は屋敷を脱け出した。
「あの時、川の畔で、親切をしてくれた男の子がいたんです」
は半蔵の隣に腰を下ろし、今までの思いを打ち明けた。
「裸足で歩くのは痛そうだ、って草履をくれて、お握りもくれました。見知らぬ私に、なんでこんなことをしてくれるんだろうって思ったら、その子のお爺さんは躯を壊して、寝たきりの状態らしくて……」
娘は目を伏せる。
の話から、半蔵は、この娘が己の腕を見て何を思っていたのかを察した。
は恩返しがしたい。親切をしてくれた少年に、受けたものを、返してやりたいと思っている。
それがどんな理由で為されたものであったとしても、恩を受けたことには変わり無いと、思っている。
の脳裏には、走り去る少年の小さな背が、浮かび上がっていた。
「でも、寝たきりということしか分からなくて、何処が悪いのかは」
病んでいる箇所が分からなくては、治療法も治療薬も探すことは出来ない。当然のことである。
そしてそれ以前に、はその知識を持ち合わせていなかった。
どうしようも出来ない事実を前にしながら、は、屋敷にある優れた薬の効果に、希望、期待を先行させてしまったのだ。
(この屋敷にある薬なら、きっと、治せるかもしれない。喜助くんのお爺さんは、元気になれるかも)
こう思った。
「どうにも出来ないのは、分かっているんです」
まるで泣きそうな声であった。
秋の風が、二人の前にある枯葉の山を吹き崩して、再び土の上に転がした。葉が地を掻く音は、虚しく、娘の哀しみをより深くさせるようである。
足元の鳩が、空に翔んだ。
「我等は、肌の色で病を知る」
今まで黙っての言葉を聞いていた半蔵が、口を開いた。
は隣の半蔵を見上げ、その瞳に、微かな希望を滲ませた。
……それから、二人は薬庫へ移動する。
棚から手の平に収まる程の小壺を取り出す半蔵が、それを次々とに手渡した。
抱えるように持った小壺を落とさぬように用心しながら、また一つ、乗せられそうな小壺に、娘はかぶりを振った。
「お、落としちゃいます」
一寸、小壺を掴んでいた指が止まる。
「……落とすな」
そして、乗せられる。
に抱えられる、上から見ると玉のような形をするこの小壺は、数えてみれば十四個あった。
蓋が開かぬように、紙の紐でぐるりと周りを留められている。
半蔵は一つ一つ、その小壺の蓋を開けてみせ、娘に、
「肌が黒ければ、これを煎じて飲む」
「黄色ならば、これを」
と、教え込んだ。
教授の後、半蔵はに小壺を入れる為の籠を渡し、庭の奥から一頭の馬を引き現れる。
を馬上に上げ、その後ろに半蔵が跨がった。
「連れていってくれるんですか?」
娘は驚いた。
「お主一人では行けぬだろう」
半蔵はこう応え、腰掛ける姿勢のが落ちぬよう、両腕でしっかりとの躯を包み、手綱を絞り上げた。
あの時は、が林の中を長い間走り続けて辿り着いた小川であったが、馬の脚で、道を通っていけば、同じ景色を見るのに一刻も掛からない。
が「あ」と声を洩らすと、半蔵はそこで馬の歩みを止めて、
「ここか」
問う。
「はい。ここであの子に会って……」
は辺りを見渡した。
かつて緑に茂っていた場所も、馬の尾のような金色の芒が存在を誇張し、視界は黄土色が占めている。
二月前とは、まるで違う雰囲気となっていた。
「ならば、近くに村がある」
馬は小川を渡りだし、その先を目指した。
少し行けば、小さな集落が見えた。
それを臨むと、
「彼処で待つ」
半蔵は背後を視線で指した。
は頷き、馬を降りる。
そして、目の前にいる半蔵に、梢に袖を掠めるような少しの名残りを感じながら、少年が住んでいるだろう村へ躯を向けた。
半蔵も馬の向きを変え、背後に茂る林へと戻っていく。
二人の距離がどんどんと広がっていくのを、娘は背で悟る。
そしてそれと共に、の躯は侘しい秋の風景に包まれていった。
村には哀愁が漂っていた。
葉が枯れ、色を失い、風が冷たく乾燥しているからではなく、元々の哀しさがそこにあった。
三人の子供が稲畑の中から飛び出してきた。
甲高い声を上げながら、一人から逃げ、小さな顔をくしゃくしゃにして笑っている。
「あの」
の存在に気付いた子供達が脚を止めた。
水面のように曇りない瞳が、己らよりも遥かに大きい人間を見上げる。
「喜助くんって子、知ってる?」
三人は互いを見た後、村を振り向き、芒を握る腕で一つの家を指した。
「あそこ」
三人はまた畑の中に入り込んだ。声が、揺れる穂の群れから溢れ、それも徐々に小さくなっていく。
は教えられた家を目指し、より一層強く、籠を抱いた。
村には藁葺きの屋根の、小屋といえる大きさの家がぽつぽつと建っていた。
その内の一つの家の前に、桶が二つ転がっている。
そして、中では何足かの草鞋が一纏めになって、天井から吊るされていた。
この家の玄関前で一人の少年が地べたに座り込み、頻りに腕を動かしている。
小さな手にあるのは、編みかけの草鞋である。
半分のところから編み方が異なり、歪であった。
少年は無心に、それを編み続けていた。
「喜助くん」
その少年に、声が掛かる。
喜助は指に向けていた視線を、声の方向へ向けた。
少年の瞳に映ったのは、桃色の小袖。
そしていつか見た覚えのある人間であった。
は少年へ駆け寄った。
目の前に来ると腰を落とし、目線を合わせて、微笑む。
「あのね、薬を持ってきたの。喜助くんのお爺さんに」
籠から一つの小壺を取り、喜助に差し出した。
「遅れてごめんね。これ、きっと役に立てると思うから」
喜助のぼんやりとしていた瞳が、の手に包まれる、小壺を捉えた。
それに指を伸ばす。
つるりとした陶器の面に触れ、撫でる。
その瞬間――。少年の眼が強い何かを帯びて揺らめいた。
黒い眼の奥に、暗い世界があった。
喜助は紅葉のように小さい手をいっぱいに広げ、の手を、払い落とした。
枝が折れたような渇いた音が響き、ほぼ同時に、小壺が土の上で砕けた。
どくだみのきつい香りが空に散らばる。
「なんでだよ」
少年の茶色く汚れた指が、振り払ったままの形で震えている。
「なんでだよぉ!治してくれるんじゃなかったんかぁ!」
喜助は悲鳴に似た声を上げ、大粒の涙を流した。それは頬の土の汚れを、筋になって落とす。
少年の声は鋭い刃を持っていた。生気を奪う秋の風が、それを纏い、二人の周りを囲んだ。
「爺、死んじまったぞ!」
は立ち上がった。
否、喜助の言葉に、押し退けられた。
「帰れ!そんなもん要らん!もう、要るもんか!」
喜助の両手がの腹を押し、背を押し、声を荒げる。
涙を拭うのも忘れ、幼き少年は喉を傷つけた。
小さな腕の力は、弱々しかった。
拳で躯を叩かれても、痛みは無かった。
しかしそれが、にとって、形容することの出来ない大きな痛みであった。
「帰れ!!」
走った。
籠を抱き締め、少年から逃げた。
歪な一足の草鞋が、地面で虚しく、空を見上げていた。
駆けたまま、三人の子供と会った道に出ると、は漸く脚を緩めた。
脇にある畑の稲穂は、一部分だけが子供達の脚に踏み倒されて、黄金の敷物になり、ぽっかりと、穴が空いていた。
立ち止まり、その穴を見つめる。
そして、眉を下げ、また歩み始めた。
前方から、人が来る。
出掛けから戻ってきた子供の親達と、肩を落とし、小さくなったがすれ違った。
村人の中に、疲れ果てた顔は幾つもあった。
彼等は明らかに己らと装いの違うを横目で見たが、何も言わず、村へ歩んだ。
は足元しか見ていなかった。
平坦な地が、ただ真っ直ぐに続いていた。
切れ目のようにその景色に草が混じり、川の水音も聴こえてきた。
対岸の少し先にいた存在はに気付いて腰を上げ、馬を動かす。
次第に、の見る世界は霧が張ったようにぼやけた。
鼻の奥が詰まる。
馬の脚が地を叩き、川の水を割り始めた時にはの双眸から止めようのないものが、次々と流れ落ちていた。
「う……っ、う……」
涙が、壺を包む紙の紐に落ちて、染みる。
目の前に来た半蔵はを馬に乗せ、馬首を林の奥へ向けた。
「寝たきりの者は働けず、米を減らすだけになる」
半蔵とは小さな池の前で腰を下ろした。
二人から離れたところで、栗毛の馬が枯葉の上を鼻で撫でている。
手の内の紅葉を見つめていたは、伏せていた顔を半蔵に向けた。
「貧しい村ではそれを惜しく思い、捨てることがあるのだ」
静かに紡がれた言葉は、娘に衝撃を与えた。
だが、この時代では当然のように、あることだった。
己が生きる為に他を捨てることは、生き物本来の、本能のようなものであった。
「外の者には、どうにも出来ぬ」
娘は再び紅葉に視線を落として、やがて、小さく頷いた。
(あのお握りは、私が思う以上に、大事なものだった)
喜助という少年は、を”氏神様”と思い込んだ。そして願いを叶えて貰う為に、草履を、握り飯を与えた。
あの握り飯――米を惜しく思って、村人は老人を捨てた。
村にあった哀愁は、人によって生み出されたものだったのだとは気付いた。
娘は涙した。
その小さな姿を目にした半蔵は、
(変わっている)
と、思った。
昼間、からこの話を訊いた時もそう思った。
半蔵は、既にその老人が捨てられていることを知っていたが、娘を知るべく、薬を持たせ、あの村へ行かせた。
氏神様と勘違いをし世話をした、ということは、勘違いをされなかったら、その親切を受けることは無かった……とも考えられる。
娘はそのことを知っているのに、少年を助けたいと言った。
少年を裏切ってしまった、と涙を流す。見たこともない老人の為に、涙を流す。非情と言える、人の本能に、涙を流す。
水面に映る紅葉の姿を、男は遠く眺めた。
空は燃えていた。
紅葉にも左右を挟まれ、何とも寂しく、悲しみを匂わせる炎の中に、二人は存在しているようである。
13.5.21
- ナノ -
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