山陰から、緩やかに陽が頭を出す。その仄かな光彩で、浜松城の瓦屋根の上にあったものが浮かび出た。朝に染まりゆく空を見つめる、徳川の忍び、服部半蔵の姿であった。
男は夜明けを待ち構えていた。広大な遠江国を、忍びの眼を持って見張るように。
普段と変わらぬ姿である。だが今日、その瞳さえはいつもと少しだけ違っているのだ。
国を見渡す純粋である筈の忍びの眼に、葉の上の朝露一滴程の思いが滲んでいた。
伏せられた黒々とした睫毛の奥、微かに覗く双眸は、朝焼けの向こう側に、を見ていた。
忍びは派によって、”忍び”とする像が違う。しかし何処の忍びも決して、人と切り離せぬ関係にはある。
忍びは、人が持つ”本能”を具現化した存在と言えた。
生、欲など、己の為である”何か”に執着する者の暗さが、彼等であり、彼等を作り、そして彼等の居場所であった。これが特に研ぎ澄まされているのが、伊賀忍である。
こうした、忍び達が”此処で生きるべき”とする、人の真底の思いで創られた、洞穴のように暗く、死体のように冷たい世界は、この時代に生きる人間が必ず持っているものだ。
持たない者など、知らない者など、いる筈は無い。
それなのに、その者が現れた。””という名を持って、半蔵の目の前に。
つまり、は”異物”である。
半蔵に限らず、忍びにとってこの戦乱の世にとって、異物の存在であった。
それが分かっているのに、何故異物であるのかが、分からない。
伊賀攻めを終え、を屋敷に置くことになってから、これについて、半蔵の頭の中で応えの無い問いが繰り返される。それ故、この思いは密かに、半蔵の忍びの意識にも浮き出ていた。
半蔵が更に瞼を下ろして見えていた視界を遮断した時、漸く下から、女中が起き出した音が聴こえてきた。三方ヶ原の東南端に位置する浜松城が、一日を始めようとしていた。
半蔵はいつも通りの忍びの眼を開いた後、姿を消した。
鴉が翔びたったようなそれを、人の目は気付くことも、知ることもない。
「――そういえば。あの娘は如何した」
半蔵が家康にそう訊かれたのは、空が灰色に曇り、特に冷え込んでいた数日前のことである。
敵対する武田家家中の雰囲気が冷えきり、離反者が出るのも時間の問題、という情報を家康に伝えた時であった。
「忍びであったか」
「否……。しかし正体が掴めぬゆえ、拙者の屋敷に」
「おお、そうか……」
男の返事に、家康は安堵の声を洩らした。
この時、伊賀攻めの記憶も新しい。長い間忘れさられていた存在は、刈り取られた稲の如くに積まれていた女子供の死体によって、蘇ったのだろう。
家康は深く息を吐き出し、そして二度三度呼吸をしてから、絞りだすように、吐露し始めた。
「半蔵。儂は、戦で流れていく血の多さに、己がやっていることは誠に正しきものか、考える時がある」
家康の顔は一つの音を出す度に、暗くなった。
半蔵は返事はせず、ただ、主の言葉に耳を澄ませていた。
「伊賀攻めのこともある。その前の、高天神城を攻めたことも。儂は数えきれぬ程の戦をし、敵味方を多く殺してきた。どんな理由があろうとも亡くした人の数は……これも、数えきれぬ程だ」
半蔵は家康の後ろにいる為、主君の表情を見ることが出来ないが、徐々に丸まっていく小さな背は、半蔵が家康の正面から顔を見ているのと同じくする役目をしていた。
信長の下で、いずれ訪れる泰平の世の為に乱世の道を進んでいる家康。泰平の為には誰かが日ノ本を統一し、またその為には、多くの戦をせねばならないことを勿論知っており、その理解と目を背けられぬ現実に”正しき道とは”と思っていた。
「それゆえに、儂の進む道で失われる命の中に、一つでも救えるものがあるならば……儂はそれを守りたい。お主はこれを、どう思う。乱世において甘いとするか」
「殿は、影に言葉をお求めか」
「……以前、影は応えぬと申したな。では家臣であるお主に、それを訊きたい」
忍びではなく、徳川に仕える一人の家臣として言葉を求められた時、半蔵は応えねばならなかった。
少しの間、家康の呼吸しか聴こえぬ時が流れる。これは極めて短い時間であったが、この部屋に家康と半蔵以外の者がいれば”長い”と感じてしまうだろう。
それほどに、この部屋には重い空気があった。
半蔵の口布の奥が動く。
「――その御心が、殿が望む世を作られる。ならば、それは殿のすべきこと」
続け、
「そして、我ら家臣のすべきこと」
脳に直接語りかけるような声が響いた。
これを聞いた家康、肉の厚い躯をより一層縮め、一度だけ、しっかりと頷く。
「あの娘、名を何と言う」
「……と」
「そうか。とな」
良い名だ――家康は呟き、首を左に向け、後ろにいる半蔵へ横顔を見せた。
その横顔は逆光により影を携えていたが、それに隠れず見えた顔は、底知れぬ希望に満ち、小さな瞳は微かな光を宿らせていた。
「そのと申す者が、儂の進む道で、救うことが出来る命の一つと思った」
「半蔵。儂の為に、その者を良くしてやってくれぬか」
これは任である――と半蔵は思った。
主である家康が泰平の世の為にしなければならぬことを己に課した任、そして、主である家康の泰平の世を作る為に、己がすべきである任、と。
「――御意」
然らば、この男に断る理由も無いのである。
そして時は今に戻り、半蔵は屋敷に帰る道すがら、朝の陽が完全に昇りきったというのに、再び空を暗くする、厚い雲があることに気が付いた。
半蔵が行く先のずっと向こうに浮いていたそれは、何時しか半蔵の頭上に来て、ぼんやりと降る太陽の薄い光さえも遮ってしまった。
(雨が降る)
半蔵は笠をより深く被り、帰る脚を速めた。
屋敷の影がそろそろ見え始めるだろうという頃、分厚い雲に覆われた空から一粒の水が落ちる。一粒、また一粒と。
そして雨粒の数も数えられぬ勢いで、ざあざあと降り始めた。笠の縁から雨が溢れ落ち、男の肩を濡らし、体温を緩やかに奪っていく。
屋敷の門を潜る時には、武士姿の男は既に濡れ鼠であった。
雨が滴る笠を玄関の壁に掛け、布が肌に吸い付く不快感と共に廊下を進めば、そこに男の足跡が判子のように付いていく。
半蔵は全身を濡らしているものを拭き取ろうと手拭いを求め歩いたが、ふと、横目に見えた縁側で、鮮やかな薄紅梅が目に入った。
進みかけていた脚を戻し、右に移動させ、そこへ向かう。
色気の無い景色に一つだけ、ぽかりと浮いていたのは、不器用に畳まれた着物、手拭いを背にして床に倒れるであった。
髪は扇のように床に広がり、袖から覗く白い手首は風に乗った雨に薄く濡れている。
半蔵は娘の隣に腰を下ろし、手拭いを取った。墨を含んだ筆先のような髪を拭いながら、の面に視線を落とす。
は小さく胸を上下させ、安らかな寝息を立てていた。
男がの川の流れを描いたような髪を指先で撫でると、それは指の動きに沿って形を変える。柔らかくしっとりと滑らかでいる髪は、半蔵のとは違う、女のものであった。
男は床の上に投げ出されたの腕を取り、濡れる肌を拭く。雨に打たれ、寒風に吹かれていたの指先は血を失ったように冷たい。
半蔵の手の中にある細い手首が、必然的に男の太い腕と見比べられた。
己と相手の”違い”が、半蔵に再び”問い”を浮かばせた。
「ん……」
小さな掠れた声を洩らした後、の瞳が現れ、半蔵を映した。
最初は、ぼうっとしていたのだが次第に目が覚めてきたらしく「あっ」と声を上げてから寝そべっていた躯を跳ね起こす。
「え……えっと……」
は睫毛を羽ばたかせる。その内に外の状態に意識を引かれ、空を仰ぎ見た。
そして、
「雨……」
と、呟く。
晴れていた頃に眠りに就いたは天の変化に呆然としたようだった。
「此処で寝ていれば、風邪を引く」
の顔が半蔵に向き、双方の視線が交わった。
眉尻を下げ、半蔵へ恥ずかしそうに微笑むの表情には、温かな血の気が透けて見えた。
「朝の空が綺麗だったから、今日一日、ずっと晴れるのかと思ってて……」
言いながら、半蔵の躯が濡れているのに気付いたが、傍らの着物を差し出そうとした。半蔵はそれに小さく首を振る。
「でも、躯が冷えちゃいます」
「……否。暫し、このままでよい」
腰を上げ、近くの部屋で着替えを済ませるのにそう時間も手間も掛からない。なのに、半蔵がこう言ったのは、それに使う僅かな時間すらも惜しいと思ったからである。
とうとう訊かねばならぬ――男は肚の中で呟いた。
半蔵は自身が霧の中から姿を現すのを待っていた。何かがあると知りながらも、危険性は無い故に、引きずり出すことをしなかった。
しかし、それも今で限界である。姿を隠すも、霧を払いたいと思う半蔵も。
「知りたいことがある」
言うと、の顔が強ばった。
話題を察しているのだろう。表情に不安が滲んでいた。
「俺は、お主の名しか知らぬ」
瞳が揺れる。
「生まれも育ちも、何故あの森にいたのかも知らぬ」
「……」
「それを、知りたい」
は悲痛に顔を歪め、かぶりを振った。
「分かりません……」
「虚言。初めから知っていよう」
半蔵がこう言うと、は何かを言いかけるように唇を開いたが、言葉が紡がれることなくまた閉じられる。
半蔵を見上げる、丸い二つの瞳がうっすらと涙を張る。
は遂に顔を伏せ、また首を振った。
「駄目……駄目なんです」
「何故」
「きっと、怒ります。ふざけるな、嘘を言うな、って」
「訊かねば、それも分からぬ」
娘の薄い肩が震えだし、半蔵が雨を拭いてやった手が、落ちる涙で濡れた。
「これからお主の面倒を俺が見る。ならば、それを知らねばならぬのだ」
姿分からぬ者を置いておけぬ――そう付け足した。
家康から”の面倒を見ろ”と命じられた以上、半蔵の直感のみでを安全と決めていることは出来なくなったのである。確かな、この娘の言葉が必要であった。隠された正体を半蔵は知らなければならなかった。
は顔を上げた。涙が頬を広く濡らし、顎を伝って膝まで落ちる。
まるで、雨のようである。
娘の内で、冷たい雨が降り続いている。
潤む双眸を見つめ、半蔵は隙間なく引かれた桃色の唇が少しでも形を変えるのを待った。声が訊けるまで、いつまでも待とうという気であった。
雨音は酷くなっていた。
小さな寝灯の明かりのような声が掻き消されぬよう、一つの音も逃さぬよう、耳を澄ませていた。
「もし、今よりも、もっと先の時から」
ぴたり、と男の耳から雨が止んだ。
鮮明に聴こえるの声。
雨に湿った空気が震え、まことの音を奏でていた。
「私が、何百年も先の時から、此処へ来てしまったと言ったら――」
は目を細め、ぽろぽろと大粒の涙を溢し、顔を両手で塞いだ。
小さな躯が悲しみに震えている。不安に震えている。恐怖に震えている。
娘の躯は、小さすぎた。
思いを躯の内に仕舞えずに、沸き上がる感情がどんどんと外へ溢れ出していた。
半蔵はその背に己の指を這わせた。人の温もりを布越しに感じた。
娘の嗚咽の度に黒髪が揺れ、それは背中を撫で、半蔵の手の甲をさらさらと撫でた。
この娘、”時を越えてきた”、と言う。
神隠し、妖怪、幽霊等の話があった時代であるが、今となっては神隠しは只の人攫いの仕業であると、妖怪は天災等、人が理解出来ぬ現象に名前を付け、まるでその所為であるとする為に作られたもので、幽霊も人の恐怖心から見える幻覚だと言われている。
この時代、多くの人はそれらの奇妙な存在を信じていた。
だが、その信者達さえも、何百年もの時を越えて来たという話は、きっと……いや、必ず、信じないであろう。狂言だと、法螺吹きだと叫ぶ。それが当然の反応であった。
半蔵は奇妙な存在を信じぬ者だ。
神隠しのそれも既に知っており、妖怪や幽霊も、人が自然の現象を見れぬ弱さ、闇に怯える心の弱さから見えるものだと知っていた。
(そうか)
半蔵は漸く、濃い霧が晴れたのを感じた。
奇妙な存在を信じぬ半蔵が、何故、娘の言うこれを信じるのか。
が言った事は、龍が目の色を得てして、やっと全体の絵図に命が吹き込まれるのと同じように、半蔵の推察に命を与え、それを確かなものとした。
半蔵が感じていたの”異物感”はが元よりこの時に生きる筈の無い人であるから、あったものなのだ。
の生きる時では、命の奪い合いが無い。それ故、己の為に何かに執着するという人の暗さを知らず、暗さに満ちたこの時から、存在が浮いている。
半蔵はこれを知った。
外の人間から言えば、
「それも、娘の存在を説明出来ぬ弱さから言っていることではないのか」
と、なろう。
だが半蔵はその言葉に、
「否」
こう返せた。
己の全てを賭け、それを言えた。
「――半蔵」
はゆっくりと面を上げ、感情に濡れる瞳で、男を見た。
「俺の名だ」
聴こえた言葉が信じられないように半蔵を見上げていたは、やがて、頷き、そしてまた頷いた。
静かに涙を落とす娘は、やっと、声を上げて泣いた。
半蔵とが初めて言葉を交わした時、半蔵はを、”親を家を失い、己の居場所を失ってしまった子供のよう”だと見た。
その通りであった。
はこの戦国時代に来たことで、己に関わる全てのものを失っていたのだ。
二人の横で、暫く止みそうにない雨が、ぬかるむ土を跳ねさせて、茶色い飛沫を上げていた。
半蔵は、雨の匂いに混じる、春の暖かな日射しのように優しく香る匂いがあることに気が付いた。
そしてこれが、未だ、解かれぬ謎であることにも……。
13.6.2
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