広がる砂利混じりの地。屋敷の入口を飾る古びれた門。健気に咲く草木の葉。全てが、白く逆立つ、冬の知らせを纏っていた。
それは朝陽を浴びることにより、硝子の粉が吹き撒かれたように、きらきらと輝いている。
これに惹かれ、葉の上を指先で撫でた娘は、霜が溶け湿った肌に見入った。
こうして、しゃがみこみ己の手を覗いているの後ろで、縁側にて胡座をかく、助八が唸る。
助八の前に懐紙が広げられ、その上に、ほぼ同じ大きさの蛤が、列になって並べられていた。
青年の指が貝を指して、
「一、二……」
数えていく。
そして、
「……五」
最後を指し、両腕を組んで、また唸った。
背を丸め、言う。
「ううん……」
「中身が無いのか」
「はい、殻のみです」
青年の隣に、半蔵がいた。
格好は着流し姿である。一”人”の男を思わせる姿であるが、胸の前で組まれた両腕、熱の無い瞳は何れも忍びのものであった。
半蔵は貝に視線を落としつつ、己の部下に、
「どうしたと思う」
と、問うた。
半蔵特有の感情を見させぬ問いに、助八は問い自身にではなく、問われたものに不思議そうに首を傾げ、
「それが……。弥左衛門殿から受け取ってから、一度も荷を開けていないんです」
受け取った時、既に無かったか……と、応えた。
三十個ある蛤の、そのうち五個が中に何も詰まっていないものであった。だが全ての殻がまるで血の溜まりを潜ってきたかのように、厚い紅色が塗られ、不気味な光沢を放っている。
顔が映り込みそうな程の色味は、忍びの二人からすれば、十分に毒々しい死の色であったが、これを”綺麗”だと思い、娘が近寄ってくる。
は半蔵側から躯を乗りだし、興味深そうに懐紙の上へ視線を注いだ。
「弥左衛門殿へ鳩を翔ばし、確認をしてみます」
「これ以外は、全てあるのか」
「はい。数通りに」
受け取る際に確認しておけば……と助八は小さくなりながら、布で包むように貝を掴んで、一つ一つ、木箱の中へ納めていった。
今までそれらを眺めていたも、
(手伝おう)
と、胸元から紙を出し、貝へ腕を伸ばした。
だが、殻に指が触れる前に、半蔵の手がの手首から指先までを包みこんだ。
不思議そうに男を見上げた娘に、
「これは毒薬ゆえ、お主では肌が爛れる」
半蔵は掴んだ娘の手を、膝元へ戻した。
「えっ」
貝にまた一度目をやってから、の面が困惑に歪んだ。
「綺麗な色をしてるのに……」
「いや、これは警戒色だぞ。この中身を少しでも躯に取り込めば……大抵は死んでしまう」
貝を全て箱に納めてから、助八がもがき苦しむ様を演じてみせた。
「助八さんは大丈夫なんですか?」
「触るだけならな。忍びは子供の頃から、毒に躯を慣らしているから、肌は強い。他の毒ならば、口に入れても耐えられるんだが……俺はこの毒に対しては、生きていられる自信が無い」
恐ろしいものだぞ、と言った助八に、は身を竦めた。
毒を包む赤い貝と、距離をあける。
この蛤に詰められた毒薬は、弥左衛門にしか作れぬものである。
然って、伊賀の者にしか手に入らぬものである。
元々が、金銭でよく動く伊賀者であるが、弥左衛門はこの毒薬だけは信用した者以外には洩らさなかった。
どうやっても抗体の作れぬ毒の脅威には弥左衛門自身さえもが恐れ、それを他の忍びから打たれることを危惧している。
「では……」
の様子に笑い、木箱を抱えた助八がこの場から去った。
此処には半蔵との二人のみとなる。
「……半蔵様もですか?」
すると、娘が眉を八の字にして、隣の男を見上げ、訊ねた。
半蔵が視線だけを寄越す。
「……応。忍びに耐えられるものでは、意味がない」
こう応えれば、は悲しそうな眼差しで、半蔵を見つめた。
普段、こうしてふと見せるの表情に、半蔵は、己には理解し難いものを感じている。
当然であった。
この感覚は、互いの住む世界が違う故に、生じるものだ。
は半蔵と違い、”死”に怯えている。
怯える者は、その対象について、驚くべく嗅覚を発する。
風が身体を包むように、足元に暗い影が伸びるように、死の香りが半蔵に付き纏って在るのを、は嗅ぎとった。
(半蔵様は……)
――あまりにも、死に近い場所で存在している。
生と死の川瀬にいた。
決して陽の当たらぬ暗い世界と一体になるのが、運命であるかのように、深く、冷たい水の中へ、ずぶり、ずぶり、と脚を踏み入れていた。
こう見えた半蔵の姿が、同情、憐れみなどのそれではなくて、には悲しく、寂しかった。
助八が戻ってきた。
入れ違うように、半蔵が腰を上げた。
「頭領、どちらへ?」
「城へ行く。助八」
「はい」
「お主は町へ行け」
振り向き、
「こいつと共に」
半蔵が目で、を指した。
半蔵、の二人の視線がぶつかる。が、男は一呼吸する間もなく、前を向きなおした。
自室へと向かっていく半蔵の背に、助八が、
「町かぁ」
息を吐くように呟いた。
「は、行ったことがなかったな」
半蔵の背を視界に映しながら、娘が頷く。
それから、懐へ腕を突っ込み、財布を取り出して中を見た助八が、
「よし」
少し大きな声を出して、
「良い店があるんだ」
並びの良い歯を見せた。
通いの男に屋敷の番を任せてから、助八とは町へ赴いた。
忍び働き以外の日常でも、直ぐに戦えるように、軽装の忍び装束を身に纏う助八は、今、天鵞絨色の着物に腕を通し、その上に薄く縦線の入った黒の羽織りを着ている。
戦いを感じさせる忍び姿とは打って変わって、気品を漂わせた、商人らしい風体となっていた。
この助八は、紺屋と、京都に在する呉服商”茶屋四郎次郎”との間を受け持つ仲介人となって、この世に身を潜めている。
半蔵の屋敷を忍びの住み処であるのを隠す為に、商人であると身分を偽り、なりきっていた。
仕事上で繋がる呉服商人の四郎次郎も、実は、家康の為に忍び働きをする一人である。
二人は定期的に会合し、助八は布地を受け渡し、四郎次郎は京都でや、各地を渡り歩く際に手にした情報を受け渡した。
「俺が着物にし、他所で売ったりもするんだ。もし、気に入った染め物があれば言ってみろ。お前に作ってやるぞ」
後に、大量の生地が屋敷に運びこまれた時、助八はそれらを検分しつつ、見事な染めに目を輝かせる娘に、そう言った。
今日は商人達が城下に集い、売りをする日である。
魚や野菜、織物等が多数の人の目に触れられ、買われていく。
「。俺は今、中島辰之助という名でいるから、間違えんようにな」
町の賑わいに緊張しているへ、助八が耳打ちした。
娘は驚いたような表情になり、
「変装ですか?」
「まぁ、そんなものだ」
そして、こくこくと頷き、
「じゃあ、私も……」
「いや。お前は、のままでいいぞ」
興奮した顔付きから一変、残念そうに唇を尖らせた。
この会話の後も、は己の周りを忙しなく見渡している。
目に映るもの全てが幻であり、それが風に流れて消えてしまう前に、眼窩の奥へ、今ある景色を納めんとしているようであった。
(そうか……。町の景色を見れば、何か思い出すかもしれんからだな)
助八の中で、は記憶を失った娘となっている。
何故、半蔵がと共に町へ行けと言ったのか、その理由をこう思った助八は、
(流石、頭領だ)
一人、感嘆していた。
実を言えば……単にに城下を見せておこうとしただけであったのだが……。
「此処だ」
助八が脚を止め、隣の娘を手招きした。
一軒の二階建ての家である。
戸口に色褪せた暖簾が垂れ、人の流れに靡いていた。
この戸前で助八が咳払いをし、髪を弄り出す。着物の合わせ目を整え、足元を手で払う。の後ろ帯に手を伸ばし、弄り、襟元も直す。
「助八さん?」
「うん。よし」
訝しげなを置いて、青年は深い呼吸を繰り返した。
いよいよ、も助八のことが分からない。
「あら、辰之助さん」
後ろから女の声が聴こえた。
辰之助――助八が振り向き、引き締まっていた顔を、解されたように、やんわりと緩ませる。
背後には、長い前髪を小さな額の真ん中で分け、肩甲骨を覆う程の黒髪を、背に垂らすように一つに束ねた女がいた。
肌は、雪のように白い。
細い一重の瞳には黒真珠のような光があり、鼻は筋を通って高く、唇は少女のような幼さを漂わせる小ぶりなものであるが、他の顔の部分と合わせると、その唇さえもが妖艶であった。
はつい、その美しさに見惚れることとなった。
「於千代さん」
惚けたの横で、また同じように惚ける助八が、女の名を呼んだ。
於千代は更に目を細める。
「丁度良かった。今、買い出しに行ってきたところなんですよ」
「そうでしたか。久しぶりに於千代さんの作るものが食べたくて、来てしまいました」
「まぁ……」
鈴が鳴るように笑う。
美しい女を前に、助八が顔を赤めているのに気付いたは、
(もしかして、助八さん)
なんとも分かりやすい恋心に、助八への疑問が解ける。
その時、於千代の優しげな目がに向いた。
「辰之助さん。この方は……」
「こいつは、俺の妹です。少し前に里から出てきて、これからは俺が面倒を見ることに」
こうして突然振られた”設定”に、
(助八さん!私、そんなこと聞いてない!)
と、は内心慌てたが、
「です。あ、兄が、いつもお世話になってます……」
と、どうにか模範回答をしてのけた。
それから、於千代の店が開き、助八とは温い昼飯を馳走となる。
魚のつみれが入った吸い物と、湯通しした豆腐に甘辛い味噌を乗せたものを食べながら、は助八から”於千代”の話を聞いた。
出会いは最近だったと言う。
父親が営んでいた宿屋を手伝う為に、於千代は里から町へ出てきたが、病持ちの父親は再会をする前に死に、今は於千代が女主人となって、店を営んでいる。
女手で店を持つのは苦労が要るが、知り合いを頼って人を集め、今までやってきているらしい。
「親父さんとは、よく立ち話をしたんだ。でもある日ぱったりと姿を見せなくなってな……そして於千代さんが店をやっているのを見掛けたから、それで事情を聞いて……」
「助八さんはその時、於千代さんに一目惚れしたんですか?」
「ぶっ」
助八は一息して飲んでいた湯を勢いよく吹き出した。
青年の顔面が熱い湯に濡れる。
「い、今なんて……」
「ひ……」
「違う!惚れてない!」
のまだ言い切らぬ言葉に、茹でたようになった助八が、吃り言葉を並べた。
店の奥から、於千代が出てきた。
気付いた助八は急いで顔を拭い、見た目を平常とする。
「……お二方は、夜の空を見ます?」
襷掛けをして捲れた袖口から、茶黒い急須を持った、白子のような日焼けの無い腕が伸びて、助八との湯呑みへ、ゆっくりと中身を継ぎ足した。
「近頃は一段と輝いて……。月が無い日には、夜の変わりようを、残念に思ってしまう程ですよ」
「ああ、そうですね。月明かりのお陰で、夜は灯り無しでも歩けます」
於千代は助八に微笑み、そして大人の色気を振り撒きながら、一段高い座敷に座するに合わせて、若干、腰を落とした。
それ程にが幼く、背が低いのではない。
於千代の身の丈が、大きかった。
助八が六尺程ある。女は助八と並び、頭の三分の一、低いかどうかであった。
於千代は、躯も手の指も、足の甲も、ほっそりとして長い。
「ちゃんは、月は好き?」
「はい。月も、星も、綺麗だと思います」
「星も……」
すると、於千代が思い出したように話し始めた。
「そろそろ、流星が見える頃じゃないかしら。しとしと雨が降るように、星が空を流れるの。前の年は生憎雲があって、それを拝めなかったけれど……」
「流星は」
助八が反射のように、否定である声を洩らした。
於千代との視線が己に注がれると、ばつの悪そうな顔になる。
「流星は……不吉な表れですよ。あれは人魂で、見てしまった時には、良くないことが起こる」
「あら、辰之助さんまで……。父もそう言いましたわ。でも、流星も月と同じものですよ。月が朝の空に沈むように、流星は速さを持って、沈んでいるだけですから」
「しかし、あそこまで大量に流れていては……。不気味で仕方無い……」
「まぁ……。殿方なのに、流星が怖いだなんて」
ぎょっとした助八に、於千代は笑いながら「あんなに綺麗なのにね」と、に向け、人懐っこい、子供のような笑みをした。
は、於千代の見た目から想像出来なかった、童女の悪戯心のようなものを見て、ついに、笑ってしまった。
助八も於千代の口振りに、たじたじとなっており、
「何も言えぬ……」
恥ずかしそうに後頭を掻いて、熱い茶を啜った。
その日の夜からである。
は陽が沈んでから、月が傾き、落ちるまで、まるで使命に燃えるかのように、澄んだ黒い空を見上げるようになった。
まだ浅い夜に寝てしまった時には、慌てて助八のところへ駆けた。
そして、決まったことを訊ねる。
青年もそれに、
「大丈夫だぞ」
決まったことを返した。
雨の夜も、曇りの夜も、は天を仰いだ。
これが、凡そ、二週間続いた。
二週間目の夜……助八が城下の見廻りに行く時、半蔵が二夜にかけての任から帰省した時、二人は屋敷の門前で鉢合わせた。
風の無い夜であった。
極めて無音に近い闇に紛れるように、二人の忍びがいる。
「頭領、お疲れ様です」
半蔵は助八に視線を送ることで、それを承けた。
そして、流れるように屋敷の奥へ眼差しを移す。
屋敷の奥――そこには、がいる。
闇や壁を挟みながら、半蔵はを見ていた。
助八が面を布で巻き隠しながら、微かに、苦笑いをした。
「まだ、起きているのか」
「はい。半分寝ながら、頑張って空を見張っていますよ」
「……」
「何だか、ああやって空を見上げる様は……」
助八が呟く。
そして、続いた言葉によって、助八の面へ半蔵の視線が向くと「冗談です」と笑った。
直に青年は上司に一礼して、擦れ違い、闇に溶けた。
半蔵は助八の言葉について、口布の奥で息を溢しながら、己の住居へと収まっていく。
縁側にて娘の影を捉え、そこへ脚を進めた。
は迫る眠気に抗い続けていた。両の目を閉じ、首を落とせば、はっ、としたようにまた瞼を開け、そして重さに耐えきれないように閉じ……を繰り返している。
遂に顔を伏せるようにして動かなくなったの肩へ、今まで羽織っていたと思われる、床に落ちていた肩掛けを、半蔵が掛け直した。
微かに半蔵の指が肩先に触れたからか、がぼんやりとした瞳を現した。
「半蔵様、おかえりなさい……」
「……眠いのであれば」
「いえ、眠くなんか……」
半分落ちた瞼を擦り、懸命に眠気を払う。
すがるように夜空を見つめる姿に、半蔵は疑問を抱くしかない。
「空に、何がある」
半蔵が問う。
が夜の空を愛でることを、半蔵は知っていた。
しかし、今のは、己が美しいと思う景色を眺めているのではない。
(ならば、何を)
と同じ様にして、双眸を、雲一つ無い空へと向けた。
「あ……」
娘が声をあげた。
半蔵は、それを見る。
月の周りを囲むようにして浮かぶ、月光の欠片である星の一つが、長い尾を引いて、黒い面を流れた。
そして、もう一つ。先程のものの少し下を、次は速さを持って、流れていった。
また一つ。また一つ。
流星は雨のように、空を駆けるように、夜の空に輝き、落ちた。
(これか)
半蔵は隣にいるに視線を落とした。
の瞳は数々の流星を映し、また、もう一つの星があるように煌めいていた。
流星を視界に納めていたが、やがて瞼を下ろして、両手を胸の前で合わせた。
息を吸い込み、
「半蔵様がずっと健康でいられますように」
これを三回、一息で唱えた。
言い切ってから、半蔵へ清々しい、満足気な顔を向ける。
半蔵はと言えば……娘の発言を理解出来ないでいる。
「……今のは」
「流れ星が消えるまでに三回願い事を唱えると、願い事が叶うんです」
「叶う筈が無い」
「いいえ、きっと、叶えてくれます。こんなに流れ星がありますから……。きっと一つの星だけでも……」
煌めく星を眺める。
「あ……そうだ。助八さんの分も、お願いしなきゃ」
この声と共に、は固く目を瞑った。
先のと同じように、一息で願いを唱える。
「……お主は」
が瞼を開ける。
「お主自身の願いは、言わぬのか」
これを訊き、娘は一瞬、呆然となった。
(私自身の……)
”今は昔、竹取の翁といふ者ありけり……”
と始まる、物語がある。
老夫婦が竹の幹から生まれた身の丈三寸の娘を育て、その娘は全ての人が目を奪われる程までに美しい女へと成長するが、娘はやがて、月を恋い焦がれるように仰ぎ、物思いに更け、泣くようになる。
実は、この娘は月の都の者であり、物語の最後では、娘は老夫婦と別れ、月の都の使者と共に、本来の居場所である月へと、帰っていく。
この娘の名を”なよ竹のかぐや姫”と言う。
先程の助八が、
「ああやって空を眺める様は……まるで、かぐや姫のようですね」
と、例えた者であった。
(間違っては、おらぬのかもしれぬ)
が竹から生まれたわけでも、月の都の者でも、ならば駕籠に乗って月へ帰るわけでもないのだが、本来居るべきではない場所で生き、本来居るべきである場所を思う姿は、かぐや姫と、同じであった。
(ならば……)
時を越え、此処に存在するも、何れは元居た時に帰るのかもしれない。
半蔵は、そう思った。
過去の夜に比べ、特に高く、澄んで見えた今宵。数々の流星が空の端へと落ち続けている。
上空に広がる、満ち満ちた闇を掻くように、空の端へと落ち続けている。
これが全て落ちきるまでは天を眺めていたが、娘の”己自身の願い”は、呟かれることがなかった。
なよ竹のかぐや姫も、恐らくは……と同じ事を、思っていたのかもしれない。
13.7.29
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