俯き加減で顔を曇らせている娘を、その隣を歩く武士姿の男が、黒塗り笠の奥から見下ろした。
直に、がおずおずと視線を上げ、武士――服部半蔵のそれと交われば、今にも泣き出しそうな顔になる。
半蔵はの、まるで他所の大名家へ人質に出されるかのような様子に、静かに息を吐き出して、
「案ずるな」
その心情を察してこの娘を宥めた。
空には雲一つ無い。その代わりであるかのように、二人の口元から一定の間隔を持って、白い霧が吐き出されている。
昼の眩しい陽射しを、肌を凍らせるような初冬の風が包んでいる今日、半蔵とは浜松城を目指し歩んでいた。
が登城するのは、此度が初めてのことであった。(過去に、半蔵によって昏睡状態のは城へ連れていかれたことがあるが、これは数えないことにする。)
時折町へ出掛ける程度で、普段半蔵の屋敷で一日を過ごすのが当たり前であるは、眼前の城を認めて、ぶるり、と躯を震わせる。
それもその筈――浜松城にはが、
(あの有名な、織田信長、豊臣秀吉と並んで評される、戦国大名……)
と知る、徳川家康がいるのである。
この家康、そしてその家臣の者との面会わせの為に、は城に招かれたのだ。
「半蔵。近いうちに、あの娘を城に連れて来ぬか」
ある日のこういった主の言葉に、半蔵が間髪無しに、
「承知」
と、応答したわけではなかった 。
半蔵は伏せていた顔をゆっくりと上げ、家康の両目を見つめた。
「なに、あの娘を疑っておるのではない。鬼半蔵の傍にいる娘がどのような話をするのか、興味があるのだ」
「……」
「三、四月程前に青白い顔を見たきりでもあるし……」
つまりは、己の進む道で失われる命の中の、救えるものであるとしたが、
「どういう娘なのかを知りたい」
という、家康の好奇心であった。
こうした思いを滲ませる、家康の微笑を浮かべた面に、半蔵は漸く頷いてみせた。
この男が主の申し出を拒否することは”決して”無いのであるが、その無表情の奥で、
(あれの素性は、どうする)
思案していた。
が戦国時代より遥か遠くの未来から訪れたことは、既に事実であると納得をしている。
そう納得出来たのは、の異物感を感じ取った半蔵だからである。
(……)
の境遇は、人に知られることで危険性を帯びていく。
「内密に……」
としても、この時代、張り巡らされた情報網によって、何処で誰が聴き、何処で誰から話が洩れるのか分からない頃である。
やがて、噂となって世に広がり、これを耳に入れた大名達が、時代の行く末を知るを求めて戦を仕掛けてくるのも想像出来ぬわけではない。
利にも害にも成得るものは、先ずは最悪の事態――言わば同盟関係である織田との開戦の可能性――を考えて扱うべきであり、
(陳ぜぬのが、良い)
半蔵はそう考えた。
本来、忍びが己の忍び働き全てを主に報告することは無いから、主の意思の裏で、主の為に独断で動くのは当然であるし、忍びを使う側もそれを理解しているのが当然である。
の素性を偽り、主に事実を語らずとも、これが徳川の為になるならば……半蔵はそれを良しとした。
「でも、半蔵様……。私、家康様に自分のことを何て話せばいいのか……」
真っ青な顔をして、が半蔵を仰いだ。
(きっと、半蔵様のように信じてはもらえない)
の胸中は、真実に近い。
「全て、分からぬと応えれば良い」
「はい……」
「記憶が無いと、俺が殿にお話しする」
半蔵がこう言えば、は小さく頷いた。
名高い大名を前に”嘘”を言う、と決まったの胸中は計り知れない。
未だ不安を籠める娘の瞳は、灰色の空を刺すように聳え立つ、浜松城を映しこんだ。
城の周りには深い堀がある。戦で城を攻められた時に、敵の脚を食い止めるものだ。
これに掛かった橋を渡り終えた二人を出迎えたのが、大木のような体躯をした一人の男であった。
眉間に皺が寄せられ、黒く濃い眉毛の下の双眸は獣の眼のように爛々としており、鼻は太く、口元はへの字を描いている。
まるで仁王の片割れ、吽形のような出で立ちであった。
「半蔵」
その男の唇から洩れた声は、地鳴りのようである。
見事に圧倒されたが半蔵の背後に隠れた。
半蔵はちらりとの姿を流し見て、再び、目の前の男へと視線を戻した。
「お主が供を付けるとは、珍しいな」
「忠勝。殿に訊いておらぬか」
「ん?殿から……」
ややあって「おお」と大きく頷いた。
「この娘が」
半蔵の後ろに立つを八尺程の身の丈である男が覗き込むように近付いて、
「名を何と申す」
端から見れば、まるで”取って食う”ようだ。
ぎゅっ、と半蔵の着物を掴んだが、
「……です……」
応える。
娘は誰の目から見ても怯えているのが明らかな状態であるが、怯えさせている本人は全くそれに気付かない。
「お主の名、覚えおこう」
それから、
「歳は幾つになる」
「拙者に、お主ぐらいの娘がいて……」
「歳が近いようだ、話し相手にでも……」
と、岩のような表情で見下ろし、言うものだから、もいよいよ倒れそうになってきた。
「……中へ」
「む、そうだな」
ここで半蔵が男の言葉を遮った。漸く、三人の足が進み始めることとなる。
男が躯を返して二人に背を向けると、半蔵が、おずおずとして背後から出てきたを横目に見た。
目が合ったは顔を真っ赤にさせて俯き、握り締めていた着物を手放す。
半蔵より、背も、体格も遥かに大きいこの男……名を本多平八郎忠勝と言った。
”家康に過ぎたるものは二つあり、唐の頭に本多平八”
と詠われた、徳川の四天王の一人、戦場の猛将である。
十三の歳で初陣を果たしてから、五十余りの戦にて槍を奮うが、その躯に掠り傷一つ、負ったことがないと言われている。
前述した、面会わせの相手方の”家臣の者”とは、忠勝のことである。
「おお……よく来た」
上座に鎮座する家康を一目見て、
(優しそうな人……)
これまでのの緊張は、大体が解けることとなった。
男の顔は丸く、小さな瞳には温情が滲んで見える。縦よりも横に長い印象であるが、その姿がより一層、家康の穏健さを見させるようであり、また、のちに”長き戦国乱世を終わらせた天下人”となる人間であることを感じさせた。
三畳の間を隔てた家康から放たれる存在感の凄まじさに、
(やっぱり、あの徳川家康なんだ……)
瞠目せざるをえないである。
「うむ、あの日よりも幾分健康に見える。今は半蔵の屋敷にて下働きをしていると聞いたが、以前も何処かで奉公していたのか」
「いいえ……」
「それとも、旅芸をしていたか。随分と変わった身形をしておった」
「い、いいえ……」
が沈黙した。
復活した緊張に、堪らず、言葉が出なくなってしまったらしい。
すると、伏せ目がちであった半蔵が主へと視線を向けて、
「この娘、記憶が無いなれば、己の名しか覚えておらぬ状態……」
「なんと」
家康は眉を下げ、の顔を見つめた。
冷や汗を浮かべた娘の真白い表情に、
(いつでも、物騒な時代である)
ことを思い返した家康。
「そうか。そうであったか」
頷きつつ、やはり、伊賀の惨状が脳裏を過っていたのである。
まるで、があの時の生き残りであるかのような錯覚を覚えていた。
「この半蔵、口数は少ないものの、頼れる男よ。お主も住み働きするうちにそれを知ったと思う。昔を思い出せぬなら、それで良い。それがお主の為なのだろう。半蔵の下で、何れ思い返せる昔を作ればよい」
こうして掛けられる言葉に、は胸を押し潰されるようになった。
「はい」
それは、己の真実を告げぬ、罪の意識からである。
そして、
”昔を捨て、今を生きればいい”
偶然にも、この言葉が未来から訪れたの心を大きく衝いたからである。
それから暫く、静かな談話は続いた。
家康はらが帰る際に女中を呼んで、一抱えの荷物を持ってこさせた。女中がに受け渡す。
半蔵は家康に、眼差しでそれを遠慮するも、
「よい、よい」
家康は微笑んで言う。
「半蔵様……」
どうしよう、と言った感じでも半蔵を見上げる。
「……」
主の厚意を無下には出来なく、男は頭を下げ、もそれに倣った。
(何が入ってるんだろう)
城を出て、外堀を渡るまでに行っていないが、ここまでそれが気になって仕方が無いであった。
自分の世界に入ったの少し前を歩く二人の徳川の臣下のうち片方が、
「どうやら来年、行くらしい」
と、口火を切る。
「……織田信長のか」
「左様。お主からこのような話があると聞いていたが、固まりつつあるようだ。四月か、五月だそうな」
「年中に、信長から使者が来よう」
「そうであろうな。そして恐らく、供は我ら数人。先ずは安土にて、そして京、堺を遊覧となれば……。十分な”長旅”となる」
「……」
「我らを討つには、絶好の機会」
こう呟く忠勝の横顔を、黄色味の強い夕陽が照らした。
忠義溢れる双眸が仄かな光彩を帯びた。
「なれど……その為に影がいる」
半蔵は先にある光に、目を細めた。
景色は暗さを増す。
沈み行く陽を追い撃つように、空が深い藍色の夜に染まりつつあった。
「……ここまで。見送り、謝する」
「うむ。随分と風が吹いてきた。雨が降るぞ」
言って空を仰いでから、
「」
忠勝が後ろを振り向いた。
名を呼ばれたは、ぱっ、と顔を上げた。歩く脚を早め、二人へと近付く。
「次にお主が登城した時には、娘の稲を連れてこよう。気を付けて帰れ」
「はい。ありがとうございます」
この時には既に、も忠勝に馴れている。
満面の笑みで忠勝にこう応えると、半蔵とは忠勝に見送られながら、橋を渡っていった。
それから、直ぐのことである。忠勝が予言した通り、雨が降り始めた。
風に流されてきた暗雲が、空を厚く埋め尽くしている。
「雨が……」
鼻先を水が掠って、 がこう呟いた時には、豪雨となっている。
つまり、一瞬のことであった。
目が点になっているの手を、半蔵が引く。男は道を外れて林の中へ入り、大木の下にを連れこんだ。葉が厚く広く付いており、時折小さな粒が落ちてくるものの、これは激しい雨を十分に凌げた。
地面に落ちて弾ける水の音が、二人の四方を囲んでいる。
「……弱まるまで、此処に」
濡れる指先をの肌から遠ざけながら、半蔵が言う。
長年の鍛練、忍び働きによって皮膚が固くなった手の感触が、の腕に残る。名残惜しいように触覚を刺激し続けるそれを肌の下で感じつつ、娘は頷いた。
深沈たる冬の寒さが、闇を満たしている。
降り続けるは、まさに字の如く、氷のように冷たい氷雨である。
(ちょっと、寒い……)
身に纏う着物はこれに濡れていた。徐々に、そして確実に、躯の熱を奪っていく。
「……冷えるか」
隣に佇む半蔵が言う。
笠を外し、二本の傷跡を持つ顔が露になっていた。相変わらずの、無表情であった。
「少し……」
すると、男は左手に持つ笠を地に置き、が抱えていた荷物を取って、その中に入れるようにした。
腹の前で、荷物を抱く格好のままになったの手へ、半蔵のものが伸びる。
まるで互いに違う生物であるかのように、双方の手は異なっている。
男と女の躯の差が、存分に表されているのだ。
半蔵の躯も、雨に濡れた所為で体温が低くなっているのだが、躯を包む太い筋肉によって、それも程ではない。
触れ合わさる手のひらから、朝空が青天に変わる時のような陽射しの温かさが、伝わってくる。
(温かい)
指先が熱を持ち始めているのを感じながら、
(半蔵様は、優しい)
そう思った。
こうした肌の重なりが、胸の鼓動を速くさせる。
血を沸き立て、どくどくと全身を巡らせる。
(……)
移る熱の心地良さに、はゆっくりと、男の手を握り返した。
依然として降り頻る雨を眺めていた半蔵が、そこから視線を逸らして、を見つめる。
は一瞬泣きそうな顔をして、それから、火照る面を隠すように俯いた。
「あの……。雨……止むでしょうか……」
「……何れは」
「そう……ですよね……」
激しい雨の幕は開かれる様子がない。だが、止まぬ雨も有る筈が無い。
息を吸い、吐き。時が過ぎていくのを感じる。天空から落ちる雨粒の一つ一つが、惜しい。もう少し長く、この時を感じさせていて欲しい。
(止まなくても、いいのに)
はこんなことを思ったが、胸の奥に留まらせた。
豪雨は一時のことであった。
次第に外は静かになり始め、半蔵とは澄み渡った夜の天の下を歩き、屋敷へと戻った。
後日、が家康から貰った包みを開けてみると、そこにはこの時代で決して安くはない、寧ろ”高価”である多種の菓子が入っていたと言う。
新しいもの好きの家康ならではの、金平糖やかすていら、ぼうろなどの南蛮菓子もあった。
倹約家(”けち”とは書かないでおく。)としても知られる家康であるが、それを社交の場に出すことは無く、に与えた菓子はその為に用意されていたものだったのだろう。
それから、文があった。読めぬの代わりに助八が読んでみると、
「食べ過ぎは躯に悪いから、数日に分け、少しずつ食べると良い。少なくなったり、無くなったりすれば、城に来なさい。次にはまた違うものを持たせる」
と、書いてあり、
「ははぁ……。これはまるで、が親方様の孫のようだぞ」
甘い匂いを振り撒く菓子と目をぱちくりさせるを見て、助八が言った。
13.9.5
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